わが青春の追憶
呉海兵団

どうせ征くなら海軍へ

当時の若者たちの希望の職種といえば、先ず軍人。そして鉄道か逓信と決まっていた。私は家族や親戚に軍隊経験者がいなかったため、日頃から肩身の狭い思いをしていた。そこでここ一番、親戚を代表して軍隊に征ってやれと思う気持ちと、もう一つの理由で海軍に志願することになったのである。

 

私の住んでいる集落は、町の中心から一里(約四キロ)あまりも離れている三河湾に面した海辺の不便なところであった。そのため、町役場の小使いさんが文書の配達に遠くて困っているとのことで、近所の町会議員さんに頼まれて田原町役場の書記として勤めていた。

この役場が実は大変なところで、吏員といっても名誉職の扱いのため給料の少ないのはやむを得ないとしても、町長を初めとして若い職員までもが毎晩料理屋通い、芸者遊びと、極道この上ない始末。毎月もらえるはずの給料は、収入役から赤字の月給袋に料理屋の借金明細書を渡されるほどであった。退職するときには、田畑の一反か二反売らなければ借金が払えないと自慢する資産家もいた時代であった。

私のような貧乏人の小せがれが、長くいては家がつぶれてしまいそうだ。しかし、就職に口をきいてくれた町会議員の手前もあるので、無理に辞めるわけにはいかない。ここは軍隊に逃げるのが一番だ。どうせ征くなら海軍に志願してやろう、と役場の兵事係から受験用紙をもらい、家の者には相談することなく試験を受けたところ、合格し採用されたのである。

実は私は子供のころから少年航空兵に、しかも海軍の乙種飛行予科練習生に憧れていたのだ。しかし、姉弟中ただ一人の男子のため、危険な飛行機乗りなどもってのほか、と乙種飛行予科練習生の受験は許されなかったのである。それでも、水兵として既に採用されたものなら仕方がないと家族たちも諦めたようである。

 

昭和十六年四月、支那事変はますます激烈を極め、片田舎の波瀬の村でも多くの若者たちに召集令状が来て一家の働き手を軍隊にとられていたが、いずれも陸軍兵ばかりであった。海軍志願兵としての当時十七歳の兵士は、村の者たちにとっては珍しかったのであろう。笠山の村はずれまで盛大に見送ってくれたのである。

 

「本日は、皆様方大変お忙しい中、私の出征に際しまして、かくも盛大にお見送りくださり厚くお礼申し上げます。大日本帝国海軍に入隊したならば、一意専心軍務に精励し、祖国のために一命を捧げる覚悟であります。どうか皆様方、残してまいります家族のこと、及び銃後の守りをお願い申し上げまして挨拶といたします。終わり」

「では征ってまいります」

慣れない手つきの挙手の敬礼に、見送りの人たちの「万歳、万歳」の声を後にしたのである。

 

愛知県出身の若者たちは名古屋駅に集合し、海軍志願兵専用の軍用列車に詰め込まれた。詰め襟の学生服を着ている者、青年学校の制服の者、なかには背広にネクタイ姿の洒落者、誰を見てもなんだか自分より偉そうに見えて気後れしてきた。明日からはこの連中とすべて競争をさせられるのだ。負けないよう頑張らなければ、と覚悟を新たにしたのである。

田原町から今回出征する者は、片浜の小林義明君、小林専治君、浦の讃岐秀雄君、豊島の川口善久君と私の五人であった。いずれも親しい友人であり立派な青年である。五人は座席を共にして元気に話し合っていたが、列車が京都を過ぎ大阪を後にして夜行列車になったころから心細くなってきた。呉は遠いなぁ、海兵団とはどんなとこだろう。

 

軍隊は自分の実力が発揮できる世界だと聞いている。地位も財産も家柄も差別しないが、その反面同情はなく、どんなに難儀をしていようとも助けてくれる者はいない。何事もすべてが競争で、これに勝たなければ一人前の兵隊にはなれない、と先輩たちから教えられてきた。頼りになるのは自分の能力と体力だけだ。貧乏百姓の小せがれで、小学校しか出ていない気の弱い私だが、どこまでやれるか全力でやってみよう。