わが青春の追憶
呉海兵団

洗面器のプール

「水泳のできる者?」

私は水泳には十分自信があった。家業は半農半漁であり、海岸から百メートルの所に住んでいた。子供のころは、夏休みになると海中に潜ってテングサや大アサリを採っていたくらいなので、海は我が家の庭のようなものであった。だから、小学校三年生で五十町(約二千メートル)の遠泳検定に合格しており、五年生には水泳の助手に選ばれていたのである。

「泳げない者?」

教班長の問いに対して、どちらにも手を上げない者が二人いた。理由は、今まで泳いだことがないから分からない。海を見るのも初めてだという島根県と岐阜県出身の者であった。海を知らなくてよくも海軍に志願したものだと、呆れるとともに感心もした。

「泳げる」と答えた者たちは、早速五十メートルプールに連れていかれ、その真偽を確かめられたが、ここでも何人か過大評価をしていた者がいたのである。海軍志願兵といっても意外に海を知らず、泳げない者が多いのには驚いた。

「水泳不能者」またの名を「センコーテツ」(ワイヤー作業に使う道具で、鉄でできており、水に浮く可能性がないという意味)、さらに「伝火薬」(大砲に使われている火薬の一種で、赤色の表示がしてあり、水泳不能者は赤色の帽子をかぶるため)などと呼ばれ、まことに気の毒な扱いをされていた。

この水泳不能者たちは、休憩になると直ちに集合がかかり、洗面器と手箱を持って中庭に出て特別訓練を受けるのであるが、その方法が実に当を得ている。

まず洗面器に水を満杯に入れて地面に置く。その手前に手箱を据え、手箱に腹を当てて腹這いになって泳ぐ姿勢をとる。教班長の号令に従って洗面器に顔を突っ込み、手足を動かして水泳訓練をやるのである。見ていてあまりカッコよいものではないが、彼らは真面目に一所懸命やっている。これなら溺れる心配もなく水に馴染むであろう。プールは無くても水泳はできるのである。

我々の水泳訓練は最初プールで基礎的な泳法を教えられ、それから海に出て、波を受けての泳ぎ方に進んでいく。とにかく平泳ぎを主体として長時間水に浮くように訓練されるのであった。

七月に入るとカッターに乗り江田島や倉橋島に行って、海水浴を兼ねた訓練が数回あり、最後に遠泳の検定が行われることになった。一周三千メートルのブイの間を二周する。つまり六千メートルが新兵としての最高水泳距離であり、水泳三級の資格がとれるのだと知らされた。

まず、体をほぐすため海軍体操で汗をかき海に入る。二列縦隊になって波間をゆっくりと泳ぎ進む。時間の制限はないのだから楽な訓練である。だが今日の遠泳は「センコーテツ」や「伝火薬」の水泳不能者の連中も参加して、日頃の訓練の成果を試されるのだ。出発して二百メートルまでに半数の者が落伍した。

「なんだ貴様ら、こんな金魚鉢の中みたいに静かな海で泳げんのか。それでも海軍志願兵か、軍艦には乗れんぞ」

ブイを廻ると逆波に変わり、海水が顔に当たりだすと更に大勢の者が船に拾われた。二百名の分隊中最後まで残ったのは僅かに六名だけであった。

六千メートルのブイを過ぎ、船に上がろうとすると先任伍長から、

「もう一周する自信のある者はいないか」

「はい、やります」

六人は船から離れて泳ぎだした。

「よしわかった、船に上がれ」

遠泳訓練の終わりに、先任伍長から全員の前で褒められたうえ、記念写真を撮ってもらった。十教班長も、

「柴田、よくやったな」

と笑顔で迎えてくれた。日頃、叱られ、殴られ、追いまくられている新兵にとって、こんな嬉しいことはなかった。

海水浴中にこんなこともあった。海から上がって木陰で休んでいる時のことである。海岸の近くを二隻の潜水艦が航行しているのをなにげなく見ていたが、ハッと気がつき、同僚二人の手を借りて我が十教班のカッターを岸から離して待機していた。案の定、潜水艦の追い波が押し寄せて、岸辺にあったカッターは砂浜に打ち上げられてしまった。おかげで我が教班のカッターは助かり、教班長の点数を稼いだ反面、他の教班の新兵たちはさんざん油を絞られ、気の毒なことになってしまった。