わが青春の追憶
呉海兵団

下手な銃剣術でも

故郷の波瀬では銃剣術のことを銃槍と言っており、昔から伝統的に強い村であった。町の青年武道大会でも剣道はたいしたことはないが、銃剣術は毎年といってもよいくらい優勝していた。従って、村から陸軍に入隊した者たちは、皆良い成績で満期除隊している。この連中に仕込まれるのだから、村の若い衆は熱も入り自然と強くなる。

高等科二年生になると、村の決まりに従って青年会に入った。そして一月初めから町の武道大会が行われる三月末まで、毎日、早朝と夕方、集会所の庭において先輩たちから銃剣術や剣道を教わってきた。しかし、私の銃剣術は村中で一番下手であった。

青年学校二年生になっても上達しない。村にいる五人の同級生に差をつけられ、いまいましいので剣道ばかりやっていたのである。私が海軍に入った後で、二人の同級生は銃剣術三段の免許をとり、愛知県代表として明治神宮の全国大会に出場したそうである。

陸軍での銃剣術は当然必要であるが、海軍でも盛んであった。

木銃を持って練兵場に出ると、

「まえ、まえ、あと、突け!」

「やあ!」

を、しばらく続け、やがて防具を付けての練習となる。

そこでは驚いたことに、思うように突けるのである。誰とやっても同じように突けるのだ。俺の銃剣術は下手なものと決めていたが、村にいたときサボリながらも練習していたお陰である。世間では銃剣術などあまりやっていないようで、防具を付けるのも初めてだという新兵が多かった。とにかく十教班で私は目立っていたのであろう、我が教班長は七教班に試合を申し込み、私は真っ先に闘わされて九人を勝ち抜いた記憶である。

自慢話を続けるが、十五分隊全員の勝ち抜き試合においても、たいした苦労もなく最後まで残り、奇跡的に優勝してしまったのである。分隊長から賞品を戴いたときは夢のようで、なによりも教班長の喜んでいた姿が嬉しかった。村中で一番銃剣術の下手な私にとって、嘘のような出来事であった。

軍隊生活は何事も勝つか負けるかで後の影響が大きい。この試合で勝ったからよかったものの、第一回の勝ち抜きで負けた者は早速切腹することになった。兵舎中央の廊下に一列に並び、『日本武士道の作法に従い』と、もっともらしい説明とともに板の間に座らされ、上半身裸になる。用意された太い筆に墨汁をタップリ付け、おもむろに腹に当て真一文字に切腹するのである。一方、勝った連中は切腹の介錯をするのであるが、それは木銃の先端に筆を縛りつけ、墨汁で首をはねるのであった。

「馬鹿もん、そんなことで腹が切れるか。貴様たちは試合で負けたんだぞ。もっと悔しそうな顔をしろ、もう一回」

と、何回も切腹の儀式は繰り返されるのであった。

こうした、恥ずかしい行事は銃剣術だけではない。何をやっても負けた者は惨めだ。

 

翌朝、朝別科のとき教班長から、

「柴田、銃剣術の支度をして四教班長のところへ行け」

四教班長は防具を付けて中庭で待っていた。

「よし、かかってこい遠慮はいらん」

木銃を構えて、恐る恐る向かっていった。

「馬鹿者、俺は二段だ、思いきって突いてこい」

それならと、向かっていったが、なるほど強い。木銃の先端が相手の胸に届かない。返突を得意とする私に、突いてこいではやりようがない。

「柴田どうした、ではいくぞ」

四教班長がヤーッと突いてくる瞬間、木銃を払い除けながら、相手の胸に銃先を当てパッと飛び退がる。やはり返突なら私でも突ける。それから二人は真剣に闘った。当然、二段の四教班長には適わなかった。

練習を終え、汗を拭きながら、

「お前は地方でだいぶ練習していたな。だが海軍ではお前のやり方では駄目だぞ。直突なら軽くてもよいが、返突は認められないから、そのつもりで頑張れよ」

四教班長の言葉どおり、海兵団卒業前の試合には優勝できなかった。皆も強くなったのだ。

 

横須賀海軍砲術学校における銃剣術はもっと極端で、絶対に直突でなければ審判官は認めてくれない。相手の胸に木銃を突き当て、サッと跳び退がった途端、

「卑怯者!」

やっぱり私は銃剣術は苦手である。

 

艦隊勤務においても、作業地に碇泊しているときには銃剣術が盛んに行われた。そして各艦対抗の試合競技もあった。

駆逐艦では、前甲板が武道場として使われるのだが、何しろ狭いうえ、床にたくさんの器具や金具が付いている。足に引っかかってやりにくい。新兵は善行章をつけた一等水兵に指導を受けることになるのだが、この古参一水殿のうちにも、たいした腕前でない者もいる。新兵の分際で勝つわけにもいかないので、床の金具に足を捕られたところを、突いて戴くのが無難なようであった。