わが青春の追憶
駆逐艦敷波

いざ敷波へ

軍艦の艦名は、次のような意味で付けられたと聞いていた。

戦艦は、昔の国の名称 =「長門」「伊勢」「大和」など。

一等巡洋艦(排水量一万トン以上)は、山の名称 =「愛宕」「足柄」「衣笠」など。

二等巡洋艦は、河の名称 =「矢作」「夕張」「五十鈴」など。

一等駆逐艦(排水量一千トン以上)は、自然現象名 =「初日」「磯波」「雪風」など。

二等駆逐艦は、樹木の名称 =「桜」「桃」「楓」など。

水雷艇は、鳥の名称 =「千鳥」「鷺」「真鶴」などである。 

艦艇の装備を改装して戦艦が航空母艦となったり、十五糎の大砲を二十糎に充実したときは、二等巡洋艦が一等巡洋艦に変更されるが、艦名はそのままである。

潜水艦は、伊号(排水量一千トン以上)と、呂号に区分され、「伊第一七六号潜水艦」というように呼ばれていた。

 

特型一等駆逐艦である「敷波」は、第十九駆逐隊に編入されており、「綾波」「敷波」「磯波」「浦波」の四隻で編成されていた。

「敷波」の戦闘装備は、十二・七|糎連装主砲三基六門と、魚雷発射管三基九門を主兵器とし、排水量千七百五十トン、最大速力三十七ノット、全長百十メートル、乗組員二百人の、駆逐艦としては大きな艦であると教えられていた。

「敷波」乗組員となって私はどんな配置に就くのであろう。大砲か、水雷か、それとも運用か、などといろいろ想像したり心配しているうちに、我々新兵を乗せた貨物船は九州の佐伯湾に到着したのである。

辺りを見回して驚いた。鬼の「日向」か、地獄の「伊勢」か、と新兵たちを震えあがらせている戦艦を始め、勇壮な重巡洋艦、スマートな軽巡洋艦、細く低く小さい駆逐艦など、大艦隊が海上いっぱいに碇泊していた。新米の私には、どれが何という艦なのか分からない。「敷波」は何処にいるだろう。

「巡洋艦『最上』に乗る者、駆逐艦『陽炎』の者、迎えの船が来たから荷物を持って舷門に集まれ」

各艦から新兵を受け取りに来たのだ。戦艦や巡洋艦は内火艇で、駆逐艦や水雷艇はカッターでの迎えである。

「駆逐艦『敷波』の者はいないか」

衣嚢を担いで舷門に行ってみると、「敷波」に乗る新兵は兵科七人と機関科四人の十一人であった。勿論初めて見る顔で、名前も知らない者たちである。

舷門を下りて迎えのカッターに乗った。舷梯につかまってカッターを引き寄せていた兵隊が顔を上げて私を見た。

「アッ、芳三君じゃあないか、敷波に来たんか」

声をかけてくれたのは、隣村ではあるが小学校の同級生の伊藤隆君であった。隆君は昨年志願しており、「敷波」の乗組員として私たちを迎えに来てくれたのだ。

「伊藤さん、敷波に参りました。お世話になります、よろしくお願いいたします」

小学校の同級生でも海軍では一年先輩である。言葉づかいに敬意を表さなければならない。一緒に居た一等水兵が怪訝な顔で、

「伊藤、お前の知っている者か」

「ハイ、小学校の同級生です」

「同級生だろうが親戚だろうが新兵は新兵だ。公私を混同せんように気をつけろ」

こりゃぁ、同級生ともうかうか口はきけないぞ。最初から隆君に迷惑をかけてしまった。

「本艦に来た新兵たちは全員乗ったか、貴様らはお客に来たのではないぞ、ボャーッとせず早くカッターを漕がんか」

内火艇で迎えられた戦艦や巡洋艦に乗る連中に、スタートから差をつけられたが、駆逐艦を希望したのだからと諦めて漕いだ。

勇壮な戦艦や巡洋艦の碇泊している間を進んで行くと、たくさんの駆逐艦が行儀よく並んで錨を下ろしていた。

「やい新兵たち、あれが敷波だ。今日から貴様らがしぼられる艦だぞ、よく見ろ」

艦首に「19」両舷側の中央に「シキナミ」と、白字で大きく記されている。スピードの出そうな細長く低い艦であった。

やがて「敷波」の舷梯に横付けした。揺れるカッターから、重い衣嚢を担ぎ帽子缶を提げて舷梯を上がっていくと、頭上から大声が落ちてきた。

「ラッタルは駆け足、ボヤボヤせず早く整列をしろ。貴様たちは海兵団で何を習ってきたんだ」

「そちらから名前を言え」

舷門に立っていた兵曹長から矢継早の指示が飛んできた。

「海軍三等水兵、柴田芳三」

「三等水兵は分かっとる、名前だけ言え」

狭い舷門に並び、十一名の氏名の報告が終わると、少尉がやって来て、書類を見ながら相談していたが、

「柴田は一分隊の一班だ、おい当直下士、連れて行ってやれ」

こうして私の配置が決められた。一分隊の一班とは何をするところだろう。下士官に連れられて艦橋の下の通路を通り抜け、最前部の兵員室に入った。

「山田、一班に新兵が来たぞ、よう面倒を見てやってくれ」

私は山田という三等水兵に渡されて、今日からこの「敷波」でじっくりと鍛えられることになった。

 

それではここで、駆逐艦「敷波」の装備と艦内の概況について案内しておこう。

艦橋から前の方は、上甲板が一段と高くなっており、最前部は錨鎖の操作をする鉄甲板となっている。その後方に一番砲塔があり、砲塔の後ろにちょっとした広い場所があって艦橋となる。

この広場が駆逐艦としては大切な場所で、練兵場であり、講堂であり、映画などの上映会場になったり、課業始めの集合とか艦長からの訓示など、総員集合ができる唯ひとつの広場である。

広場といっても狭い駆逐艦のことなので、最も幅の広いところで十メートルほど、砲塔と艦橋の間はせいぜい七~八メートルである。だから総員集合のときには、艦橋の両側までも整列するのである。

この広場の下段が、第一区という兵員の居住区になっている。私が居住することになった第一分隊第一班は、この第一区が兵員室であった。

駆逐艦の兵員室は、とにかく狭いうえに天井が低く、頭がつかえそうな位置にビームが横たわって、いろいろなパイプや電線が通っている。両舷側には舷窓という丸くて小さい窓が数か所あり、厚いガラスに鉄の蓋が付いていて、風波の強いときや航海中は蓋を閉めるため、日照権といったようなものは全くない。

部屋の内部には、鉄柱や器具を避けた場所に折畳み式のテーブルが五脚置いてある。このテーブルとイスの脚は床の金具にネジで止めてあり、艦が揺れても動かないようになっている。両舷側にはイスを兼ねたチスト(衣服の保管箱)が取り付けられている。このチストに衣服を入れられるのは下士官だけで、兵たちは衣嚢のまま邪魔にならない場所に置くだけであった。

一つのテーブルには十名ほどの者が掛けられ、食事は勿論のこと、酒保物品の購入とか配給品の分配など、一卓として扱われるのである。

この狭苦しい複雑な室内で寝るのは実に大変なことであった。部屋の隅の方に簡単な寝台が三つばかりあるが、これは善行章四本以上つけている下士官用で、いわゆる神様級の古参下士官でないと寝ることはできない。次は、テーブルを折り畳んでチストとテーブルで平面を作り、その上に毛布を敷いて寝るのだが、これも善行章のある者の場所である。従って、若い兵たちは専ら吊床のご厄介になるわけだが、なにしろ狭くて低い室内のことである、寝台の上であろうが通路であろうが縦横無尽に吊り巡らしてもまだ足りない。砲塔の下にある弾薬を揚げる場所まで吊るのであった。

新入りの私は、下士官の寝ているテーブルの上に吊る場所が与えられた。そして実際に吊ってみると、私の吊床の下を古参二等水兵の吊床の先端が横切っている。そのため、私は寝るも起きるも上官に障らないように気を配らなければならず、朝は真っ先に起き、下士官を踏まないように、二等兵を起こさないように、細心の注意を払いながら自分の吊床を括り、落とさないよう格納するのに苦労したのである。このような兵員室がもう一段下に一室あり、艦の最後部に二室あった。各居住区とも天井が低く狭いのは同様であった。

艦橋の一番高い所に砲戦指揮所(トップと言っていた)があって、ここの眼鏡で目標を狙い引き金を引くと、各砲塔の大砲が六門一斉に発射するのである。トップの後ろに、一段高いドームに太い筒が横に延びている装置がある。これは三メーター測距儀といって、一万八千メートル位までの距離が測定できる。

トップの下段は羅針艦橋となっており、航海、信号、水雷戦の指揮などをする、いわゆる艦の頭脳にあたる重要な所である。その下が操舵室と無線電信室になっていて、さらに下段が、つまり上甲板と平面になる位置に艦長室があり、その下が前部士官室となっている。

艦橋の直後に前檣があり、この高いマストに旗流信号が掲げられるのだ。その後ろに一番煙突、続いて一番連管(魚雷発射管のこと)、二番連管、二番煙突、探照灯、三番連管、後部マストの順に装備されている。

そしてこれらの兵器の下段に、つまり艦の中心部に四基の強力な蒸気汽缶と、二基の主機械が備えられ、二つの大きなスクリューで進むのである。

後部マストの後ろは二番砲塔、続いて三番砲塔、後部甲板、艦尾となる。後部甲板の下に兵員室があって、艦尾の上甲板には爆雷投射機と掃海用具が配備されている。

以上が「敷波」の概要であるが、なにしろ艦の大きさは全長百十メートル、幅は広いところで十メートル余り。外舷の高さは艦橋から前の部分は水面から五メートルだが、後ろは二メートルと低く、艦底は水面下四メートルの小さく細長い軍艦である。

この鉄の塊は、全て兵器を主体とした装備となっており、従である兵員の居住や通路は狭く、階段は垂直になっている。さらに砲塔や魚雷発射管が旋回しているときは危険で、上甲板は通れなくなってしまうのだ。

上甲板から汽缶室や機械室に出入りするには、人間一人がやっと抜けられるだけの丸くて小さいマンホールの口があって、機関科員はここから垂直の鉄梯子を伝わって下りるのである。他に出入り口はなく、その入口も航海中は鉄の蓋を固く閉め、海水が侵入しないように閉じたままである。

居住区の各室の出入り口は防水区画になっており、部屋の出入り口は人が屈んでやっと通れるだけの狭いもので、そこには鉄の防水扉が付いている。いざ戦闘となれば扉は全部閉ざされ、もし敵弾が命中し爆発しても、隣の区画に被害を及ぼさないようになっている。だから、室内にいる者は絶対に助かる見込みはない。兵員の生命などは全く無視され、艦を維持して最後まで戦うことを目的としたのである。人権擁護などの言葉すらない時代、いかにして立派な死に方をするかが軍人の本分とされていたのである。

 

駆逐艦における分隊の編成は、砲術科(大砲、機銃、測距、探照灯)を第一分隊。水雷科(魚雷、爆雷、水中測的、掃海)を第二分隊。航海、運用、電信、医務を第三分隊。機関科(汽缶、主機械、電気補機、金工、木工)を第四分隊に区分され、それぞれ分隊のうちの配置によって班が編成されていた。私が連れていかれた第一分隊第一班とは、一番砲塔の砲員の班であった。

先輩の山田三水(三等水兵の略称)から夕食の支度を教わりながら準備した。

「柴田、お前の持って来た新しい食器を出せ。それを班長用にするからな、お前の食器はこれだ」

海兵団から大切に持ってきた新しい食器を取り上げられ、ところどころ傷のある古い食器に換わってしまったが、文句を言う元気もない。

この箸入れは誰のだから覚えておけ、この食器は誰のだ、と一つ一つ班員の持ち物を教えられるのだが、まだ私は班員の名前も顔も知らないし、食卓に着く席順も誰が何処に座るのかさえ分からない。ひと通り説明が終わると、

「次の食事からお前がやるのだ、いま言ったとおり間違いないようにやれよ、いいな」

なにが何だか分らないうちに食事となり、班員が集まってきた。

ここで、一番砲塔の砲員長でもあり一班長でもある藤原一等兵曹から、班員に私は紹介された。

「皆ちょっと聞いてくれ、今日から一番砲員になった新兵の……おい名前はなんと言うんだ」

「はい、柴田芳三であります」

「皆よう面倒みてやってくれ。柴、貴様しっかりやれよ」

これで私は駆逐艦「敷波」の正規の一番砲員になったのだが、ここでは名前も省略されるらしい、柴田が柴になってしまった。

「柴、一番砲は艦の先頭にある戦闘配置だ。他の砲員に負けんよう頑張れよ」

と恐い先輩から励まされた。

夕食後、本日乗艦した新兵は後部甲板に集まれとのことである。急いで後部甲板に行ってみると、善行章三本の一等兵曹と、善行章一本の一等水兵が待っていた。

「今日来た新兵整列。お前たちは海兵団で基礎教育を終えて、一人前の兵隊になったつもりでおるが、敷波の乗組員としてはまだ役に立たんのだ。従って明日から二週間新兵教育を行う。俺がその間の教員である宮田一曹だ。教員助手はここに居る和田一水にやってもらう。お前たちはこの新兵教育期間中にどんなことでもよいから聞いて早く覚えろ。教育期間が終わると、知らないとは言えなくなるのだぞ。それでは、明日の課業始めまでは各班の先輩に教えてもらい、班の仕事をしろ」

そして新兵の目印に、黄色い小さな布切れを胸に付けることになった。

「おい新兵、お前の齢はなんぼだ」

煙草盆に集まって雑談していた下士官の一人が、私に声をかけてきた。

「はい、十八才であります」

「お前たちは直にも兵曹長ぐらいになるつもりで海軍に志願したのだろうが、俺はな、お前が生まれたとき海軍に入ったのだ。だからお前たちがどんなに頑張っても、兵曹長になるのには二十年はかかるぞ。どうだ、がっかりしたか」

そう言われて驚いた。よく見ると軍服の右腕に善行章の山形が五本付いててる。他の下士官も四本の者三本の者と古参の下士官が多い。

下士官連中の笑い声を後に、急いで立ち去ったが内心はがっかりした。十五年以上も軍隊にいて、しかも高等科練習生の特技章を付けているのに、いまだに準士官にもなれない者がいたのであった。これが海軍志願兵の前途であろうか。