わが青春の追憶
駆逐艦敷波

夜の新兵

「巡検終わり、たばこ盆だせ」

巡検が終わればもう自由時間であるが、新兵にはまだやらなければならないことが沢山ある。まず洗面器でも磨いてやろうかと吊床を下りたところ、宮本三水が低い声で、

「整列がかかったから、直ちに二内火艇ダビットの下に行け」

と、なかば命令口調であった。

 

『整列』とはなにか、詳しく説明しておこう。

一口で言えば、海軍独特の気合いを入れるための共同制裁のことである。

海軍軍人として一人前に認められるのは、善行章が一本付いた時、つまり満三年海軍の飯を食ってからである。陸軍なら二年兵になればもう威張れるのだと聞いていたが、海軍では初年兵期間が三年間もあるのだ。

海軍における兵の段階は、

ゼンツー=善行章二本の一等水兵のこと。練習生など学校を出ていないので進級の可能性はないが、下士官連中も一目おいていた。

ゼンイチ=善行章一本の一等水兵のこと。三水たちがいちばん恐がる階級。

オチョウチン=善行章のない一等水兵のこと。

その次に二等水兵、そして三等水兵となるのである。

ゼンイチ連中の内から元気のよいのが選ばれて、『役割』という係に就くのである。『役割』の職務は、従兵だとか当直下士や当番、厠番などを各班から出役させたり、臨時人夫を決めて作業を命令するのが本来の役目であるが、兵の規律や取り締まりも厳しく行っていた。

この役割が、同年兵のゼンイチたちと相談して、今夜一つ気合いを入れてやろうかと、整列をかけたのであろう。

左舷中央にある二内火艇ダビットの下に行ってみると、既に暗闇の中には二十人程の兵が並んでいた。私も敬礼をして列に加わった。誰もが何かに怯えているようだ。

やがて役割と思われる者が前に出ると、手に持っていた太い棒をコツンと床に突き立て、

「全員整列したか」

列外にいる五、六人の中から、

「全部集まった、始めていいぞ」

「ようし、休め。休んだままよく聞け。今夜集まってもらったのはほかでもない。貴様らはこの頃たるんどる。今日のカッターの揚げ方はなんだ。新兵が乗らずに古参の三水がカッターに乗っていたではないか。新兵も新兵だが、オチョーチンも二水もこれを注意もせず見ているとは何事だ。それから、この頃下士官たちに接する態度がなっとらん。もっと親切丁寧に心を込めてお仕えしろ。新兵たちもこんなことは教育中に教えられたはずだ。知らないとは言わせないぞ。旧三も新兵が入ったからいい気になりゃがって横着しとる。言って分からん奴は分かるようにしてやる。まだ他にも目に余ることがいくらもあるが、今は言うことをやめる。新兵どもにもよう分かるよう、今から気合いを入れてやるから一人ずつ前に出ろ」

七、八人前に飛び出して行った。

「よぅし、一人ずつ並べ」

最初の一人が役割の前に進み、

「お願いいたします」

と敬礼、そして二番連管の鉄板に向かって立った。足を開き両手を高く上げ、尻を出すように上半身を前に屈めて身構えた。

「歯を食い縛れ、それっ!」

ヒューンと直心棒が唸る。ドスッと鈍い音。続いて二つ、三つ、五回の音で終わったようだ。

「ウーン」

と低い呻き声は私の気のせいだったのか。

「有り難うございました」

敬礼をして別の場所に並ぶのだが、一歩一歩あるくのが苦しそうだ。

「こんなことでフラフラする奴は、気合いが足らん証拠だぞ。次、来い」

次から次と直心棒を尻にくらっていく。オチョーチンも、二水も三水も、皆が五回ずつ公平に殴られるのだ。誰も声を出す者はいない。ただ外舷に打ち付ける波の音だけである。

十人ほど進んだ頃であった。パキッと直心棒が手元から折れ、先端が吹っ飛んで魚雷発射管の鉄板に当たって跳ね返った。打ちどころが悪かったのであろうふらついている。立っているのが苦しそうだ、それでも声を立てない。

「おい、誰か代わってくれ」

殴る役割もきついのであろうか、息を弾ませながら折れた棒を持ったまま隅の方へ立ち去った。

「よぅし、今度は俺がやる。もっと足を開け、歯を食い縛れ」

役割の同年兵と思われる者が甲板を踏み締めるように出て、用意されていた代わりの棒を力一杯横に振った。前よりも一段と激しい。

次は私の番だ。自分では気付かなかったが、あまりの恐ろしさに顔色もなく手足は震えていたであろう。いよいよ私の殴られる時がきた。

「お願いいたします」

「おい、お前は新兵か」

「はい」

「新兵なら発射管の鉄板に掴まってよい。口を開けるな。歯を食い縛れ、よいか」

バシッ、と尻全体を大きな強い力で押しつけられたようで、前に飛び出しそうになるのを、鉄板に掴まりぐっと堪えた。続いて二つ、三つ、痛いというよりも体中がだんだんと痺れて、感覚が薄れてきた。

四つ、五つ、眩暈がしてきた。

「よし、行け、次だ」

やっと終わった。これで私も皆と同じように我慢したのだ。嬉しかった。だが歩こうとしても腰が痺れていて、足にも感覚がない。転ばないように鉄板を伝って必死に歩いた。

こうして善行章のない若い兵たちは、一水も二水も私たち新三等水兵と同様に、実に公平に殴られるのであった。

全員の制裁が終了したところで、

「別れ」

となったが、治まらないのはオチョーチン連中だ。その場で引き続いて整列となった。善行章組は続いてやることを予期したように去って行った。

「貴様らがたるんどるから俺達まで殴られたんだぞ。気合いを入れてやる」

今度はオチョーチン組に、二水以下の者がやられることになった。

「全員、前ささえ」

前ささえとは、学校の体操でよくやっている、腕立て伏せのことである。この制裁は海兵団でも三回ほどやられたが、時間が長いと必死の苦しみを味わうものである。

先程殴られた腰がまだ痺れている。体中が痛いのを我慢して、床の鉄板に手をつき両足を伸ばした。体重が腕にこたえて手のひらが鉄の床に食い付く。

五分も経たないうちに汗が首から腕に伝わり、顔から床にしたたり落ちる。

「片足上げ、肘を半ば曲げ」

オチョーチンたちは手分けで私たちの周囲を見張っており、誤魔化すわけにはいかない。体中が汗でびっしょりになり、腕の肘が小刻みに震え出す。腹の皮が捩れそうだ、苦しい。床に腹を付けたりすると直心棒で痛い尻を容赦なく叩かれる。

「片足下ろせ、肘を伸ばせ」

もう、他のことなど考えてはいられない。今のこの苦しみにどれだけ耐えられるか、いつまで我慢できるのか、自分の体力と忍耐力だけが頼りである。

「貴様ら、これくらいのことが出来ん者を海軍は採ってない筈だ。ふらふらするな、まだ気合いが足らん」

腕の震えがだんだんと激しくなる、時間では二十分か二十五分位であろうが、一時間以上経っているように感じる。とにかく苦しい、体中の骨がバラバラになりそうだ。

もうこれ以上はもたない、助けてーと泣き叫びたい。近くでバシッと音がした。へたばって殴られたのであろう。続いて二人、三人。

「ようーし、立て」

ホッとして立ち上がった。全身汗でぐしゃぐしゃ、棒のようになった腕をそっとさすりながら曲げてみる。やっと助かった。後で知ったことだが、前ささえの時間は三十分間だったとのことである。

こうしてオチョーチンたちの罰直が済んでも、まだ今日の整列が全部終わったわけではなかった。

次は二水連中から声がかかった。

貴様たちのおかげで俺たちまでと、ビンタを三発ずつ殴られて、ようやく今夜の整列は終了したのである。

殴られた尻が、今になって火が着いたように痛みだした。そおっと手を当ててみると筋になって腫れあがっている。顔を殴られたとき口の中が切れたらしく、左の頬の内側がヒリヒリする。今から三年間も毎日こんなにやられるのかと思うと、悲しくなってつい涙が出てくる。

「やい、泣いている暇があったら、早く洗面器でも磨かんか」

先輩三水から怒鳴られて走りだした。新兵は泣いている余裕もない。急いで居住区に戻り、洗面器を手にして上甲板に上がった。

艦首にある碇泊灯のもとに行ってみると、既に前部員の三水たちが集まって洗面器を磨いていた。ここでも先輩と新兵は、はっきりと差をつけられるのだ。体中の痛みを我慢して一生懸命に手を動かしているのは勿論新兵だ。検査、監督と井戸端会議は先輩たちである。

「今の整列で俺はタチくっちゃった。山川一水に殴られたのだ、山川さんは厳しいからなあ。車田お前は誰にやられた」

「俺は早川一水だが、応えたぞ、明日は厠で屈むことができんかもしれんな」

「早く三年経って善行章が欲しいなあ」

「馬鹿もん、お前は善行章を付けてまで海軍にいるつもりかよ。俺は家に帰って早く良い嫁を探すんだ」

徴兵の者は三か年で兵役が満期となり、晴れて家に帰れるのだ。しかし、我等志願兵は六年間の兵役義務があった。さらに練習生を経て下士官になれば五年間延長され、合計十一年もの長い期間軍隊にいなければならない。

「そんなことよりも、近いうちに艦隊訓練が始まるらしいぞ、航海中は何をやっても厳しいから嫌だなあ。それに外海に出れば凄くガブルから、俺は海に弱いので参ってしまう」

「一期の艦隊訓練だな、また飯が食えなくなるか」

「おい、お前たち、駆逐艦の航海は始めてだろうが。出港したら味噌汁は絶対に飲むな。飲んでも吐くだけだからな」

こんな会話を聞きながら洗面器を磨きあげ、検査に合格すると、次はゼンイチ以上の靴を集めてきて靴墨を付けて念入りに磨き、間違いのないように元の位置に揃えて置く。

「今夜はこれで止めよう、俺は寝るからお前たちも早く寝ろ」

やっと自由の身になったが、既に午後十一時になる。靴下や襦袢の繕いなど身の回りの整理をする元気もなく、故郷への手紙を書く気にもならない。

前部員の新兵、といっても私と八曽と井川の三人だけである。お互いに思いは同じであろう。

大変なところに志願してまで来たものだ。朝早くから夜遅くまで寸刻の休みもなく働き続け、四六時中上官たちに気を配り、挙げ句の果ては気合いが足らんと罰せられ、身も心も疲れ切って涙が込み上げてくる。声を出して泣きたい。いっそ死のうか、アア。

だが、故郷を立つ時の万歳の声を思い出す。元気に頑張って、と家族の顔が目に浮かぶ。勇気を出そう。

「おい、もう寝ようよ」

溢れ出る涙を手でこすりながら、居住区に戻って寂しく吊床にもぐり込んだ。

これが、栄光を誇る帝国海軍の駆逐艦における新兵の実態である。祖国を護るための戦闘員を養成するには、厳しい規律も激しい訓練も必要であることが後で分かった。多くの先輩たちもこの道を通 って、一人前の海軍軍人となったのである。