わが青春の追憶
駆逐艦敷波

夜の駆逐艦

夕闇の迫った空は一面黒雲に覆われ、今にも降り出しそうであった。風はますます強まって波が砕けた白波を吹き飛ばしている。山のようなうねりが迫っては艦を高く押し上げては去ってゆく。そのたびに艦は悲鳴をあげ、奮いたっては進んで行く。飛沫が冷たい、濡れた顔を掌で拭いながら居住区に入った。

「今夜は時化るぞ。シバ顔色が悪いなしっかりせんか。これくらいの波で本艦は沈みゃあせん、元気を出せ」

「まあ大船に乗ったつもりで安心しろ」

ゼンイチ組からひやかされていると、

「訓練、配置につけ」

緊急ブザーを背中に聞いて、一番砲塔に駆け上がった。

「合戦準備夜戦に備え」

今度は夜戦訓練である。といっても外が見えるわけではないので砲塔内では昼戦と変わらない。全員戦闘配置に就いたものの、訓練は一向に始まろうとしない。どうしたものかと思っていたところ、砲塔の下の出入り口から声がかかった。

「夕食は戦闘配食だから持ってきた。いま渡すから誰か受け取ってくれ」

いつも烹炊所で威張っている二等主計兵が、各配置に食事を届けにきたのであった。戦闘になれば飯炊き兵も親切になるのだ。

乾麺包が一人に一袋(四枚入)ずつ配られた。ヤカンにはミルクも入っている。

「おい主計兵、乾麺包では戦に勝てんぞ」

「ハイすみません、その代わりに夜食を用意しています」

「ほう、夜食は何だ」

「ぜんざいです」

これ以上関わっていてはと、主計兵は逃げるように姿を消した。

たいして食欲もなかったが、食べないと叱られそうな気がしたので乾麺包を一枚取り出し割って口に入れてみた。腹の中が空っぽのせいか甘くて美味い。なんとか事故もなく全部食べてしまった。

「おお、今度は食えたな、その調子だ」

射手の上田兵曹から元気づけられた。

戦闘配食とは有り難いもので、支度も片付けもいらない。我々新兵も配置に就いたままゆっくりと食べることができるのである。

少し艦の動揺が静かになった。風が凪いできたのかと内心喜んでいたところ、

「曳航補給用意、水兵員上甲板」

なんのことはないスピードを落としたのであった。曳航補給とは、航海中に油槽船から重油を補給することである。戦闘訓練を一時中止して洋上補給訓練となった。

飛沫に濡れないように雨衣を着て上甲板に上がった。真っ暗闇の海上にチカッ、チカッと、赤色の発光信号が交わされている。既に大型タンカーが左舷に近づいていた。

「新兵たちは危険だから手を出すな、下がって作業をよく見ろ。ワイヤー作業は一水以上の古い者たちでやれ」

掌水雷長の指揮のもとに曳航補給訓練が始まった。速力を六ノットに落とし、進路を決めて徐々に接近してゆく。大型油槽船が左舷に近づいてきた。五十メートル、四十メートル、 パーン。

舫銃が本艦から発射され、細紐がスルスルと闇の空に伸びていった。続いて太いロープが渡され、さらにワイヤーが送りだされた。近舫には特別太いワイヤーが張られた。すると油槽船のクレーンで大きな鎖を束にして、近舫の中ほどに吊り下げたのである。次にクレーンで送油管を本艦に渡し、機関科員の合図によって給油が開始された。この作業を闇夜の中で、しかも荒れた海上を航行しながらやるのである。照明は一切使用せず、合図は赤色の懐中電灯だけである。実に危険な作業だ。

古参下士官から丁寧な説明があった。

「二隻の船が舫をとって航行するときは、必ず近舫に錘を吊さないと危険だ。二隻の船がぐいっと離れると、どんな太いワイヤーでも切れてしまう。急激に引っ張られてワイヤーが切れないように錘りをつけるのだ。あのチェーンは5トンあるから大丈夫だ」

下士官の話はなおも続く。

「それからワイヤー作業で気を付けなければいけないことは、手袋を絶対に着けないことだ。ワイヤーには針金が切れて刺が出ていることがある。ワイヤーを送り出しながら刺が手袋に刺さったら死んでしまうぞ。太いワイヤーが勢いよく滑りだしたら、もう人の力では止めることは出来ない。そのまま手袋と共に海中に引きずりこまれてしまう。手袋さえしていなければ手の皮を剥ぐだけだから命は助かる。まだあるぞ、ワイヤーを繋柱に止めたらワイヤーの張りに注意しろよ。ピーンと張ったワイヤーの芯から油がにじみ出るうちはまだよいが、煙が出だしたら早く逃げろ、切れる寸前だからな。ワイヤーが切れたらどうなると思う、そこら当たり薙ぎ倒されるぞ。これに当たってみろお前たちの足の五本や十本簡単に折れてしまう。実際にやられた者がいくらでもいるのだから気をつけろ」

なるほど危険な作業であることがよくわかった。新米の三等水兵では役に立たない。古い兵や下士官たちが威張るのも無理はない。

三十分ほどで燃料補給訓練を終え、舫い綱を離すと再び速力を上げて艦隊の編成に加わったようで、また動揺が激しくなった。

「訓練配置につけ」

「砲雷同時戦用意」

今から水雷戦隊の最も得意とする、夜襲攻撃訓練が開始されようとしている。砲塔内は緊張した。

「左砲戦、左六十度、戦艦」

素早く弾丸が装填された。艦は猛スピードで突っ走っている。しばらく何の号令もこない、砲塔に吹き付ける風の音、波濤の響き、汽缶の振動が続いた。

艦橋で叫ぶ声がかすかに聞こえた。

「発射用意、テー」

シュッ、シュッ、魚雷が発射されたようだ。続いて、

「取舵いっぱい」

艦が急にググーッと右に傾斜する、砲塔も大きく旋回。

「撃ち方始め」

グワーン、砲塔全体が響きをあげて砲撃を開始した。もう波の音も風の唸りも耳には入らない。中継所からの号令を聞き漏らさないよう受話器に全神経を集中する。砲尾にいる兵員たちも夢中で装填している。下段の弾薬庫から弾薬と装薬が、揚弾機を通して次から次へと送られてくる。十斉射ほど発砲した。

「撃ち方待て」

「舵故障、人力操舵員配置につけ」

舵は常に動力によって作動している。この装置が故障したときには、艦尾にある油圧ポンプを人力で押して舵を動かすのだが、これは大変な力のいる仕事であった。そのため、この要員にはボートクリーが当ることとなっていた。一番砲塔にもボートクリーが一名いる。

「砲員長、車田三水、ただ今から人力操舵の配置に就きます」

「よし、車田頑張ってこい、柴田、車田の代わりをやれ、俺が伝令をやる」

車田三水は三番砲手だから弾丸を抱える役目だ。十二・七糎砲の弾丸は小さくても二十キロ余りあり、操作は簡単だが腕に力のいる配置であった。

弾丸を両手で抱えたとき、急に艦が右にカーブした。床が左舷に大きく傾き、弾丸を抱えたまま足を踏ん張っていたが、耐えきれず二歩左に動いた。とたんに、

「馬鹿者気をつけろ。演習弾だからよいが実弾なら信管にでもぶっつけてみろ、こんな砲塔なんかいちころだぞ。気合いを入れてしっかり持たんか」

一番砲手の松井一水に怒鳴られた。

「目標、巡洋艦隊、一番艦を狙え。撃ち方始め」

轟音と同時に砲身が後退する。一番砲手はすかさず尾栓を開く。二番砲手が砲身内の洗浄を確認して手を上げた。私が弾丸を抱えて尾栓に当てると、四番砲手が装填棒で力いっぱい弾丸を砲身内に突っ込み、二番砲手が装薬を挿入した。一番砲手がサッと尾栓を閉めた。砲身がググッと仰角する。発砲、轟音と振動。これを十二秒のタイムで繰り返し続けられる。

砲塔内の薄暗い電灯の下で、汗と油にまみれての訓練であった。鉄製の低い天井、狭く息苦しい塔内、暑いからといって窓を開けるわけにはいかない。一点の光りも漏らしてはならない灯火管制下である。

「撃ち方待て」

ほっとして抱えていた弾丸を台の上に置いた。全身汗びっしょりだ。

「撃ち方止め」

砲撃戦は終わったが、まだ警戒体制は続いている。一休みしたいところだが腰を掛けるものはない。床は油で拭いてある鉄甲板だ。立ったまま壁になっている鉄板に寄りかかって休むだけだ。

しばらくすると、人力操舵に行っていた車田三水が戻ってきたので、私も元の伝令に帰ることになり、砲員長から受話器を受け取った。

何事もなく二十分ほど過ぎた。だが何の連絡もない、たまりかねたのか上田兵曹が、

「おい伝令、訓練は終わったのかどうか聞いてみろ」

「中継所、一番ですが訓練はまだ終わらないですか」

「そんなこと俺で分かるか。終われば連絡するから余計なことを聞くな、あほたれ」

 中継所伝令の中村一水に叱られてしまった。それでも聞いたことを皆さんに知らせなくてはと、叱られたとおり伝えた。

「馬鹿だなお前は、そんなこと本気になって聞く奴があるか」

言われたとおり聞いて叱られ、聞いたとおり報告して笑われた。軍隊とはやはりシャバとはどこか違っている。

「合戦準備、用具おさめ」

やっと本日の訓練が終了したようである。艦の速力も原速(十二ノット)に落としたのか、動揺が小さくなり静かになった。だが居住区に入ったとたんに気分が悪くなった。今まで張り詰めていた気持ちが緩んだのか、舷門まで走っていって吐いてしまった。

 

艦橋では、見張員たちが魚雷の行方を捜しているようだが、まだ見つからないのか水雷長の大声が聞こえてくる。艦橋を戦闘配置とする信号兵は、艦長を始め水雷長、航海長、通信士などから直接命令されるだけに神経を使うことが多いだろう。

居住区に戻るなり、私の顔を見た下士官が、

「おい夜食はまだか、訓練は終わったんだから早く食わせろよ」

「はい」

と、動こうとすると、宮本三水の目が、駄目だを知らせた。

どうやら魚雷を見つけたらしく艦が停止した。今から魚雷を引き上げて、夜中分解整備するのである。航海中の水雷科員も大変だ。

再び艦が動きだした。大波に逆らってローリング、ピッチングと絶えず激しく揺れている。何処に向かっているのであろう。

「夜食用意」

それっと、烹炊所へ走った。食缶を受け取ってみると、主計兵の言ったとおりゼンザイであった。甘い香りが懐かしい。だが胸につかえた吐き気が込みあげてくる。すごく美味そうだが食べる気になれない。

みんな美味そうに食べている。人一倍甘いものの好きな私だが食べられない。小豆も沢山入っているようだ。なぜこんな荒海の航海中にゼンザイなどを作るのだ。意地悪、主計兵が恨めしい。

「シバ、お前ゼンザイは嫌いか。これからもお前の分を食ってやるからな」

「今年のゼンザイは甘いなあ。特に航海中に食うのは旨い」

めったに食べることのできない大好物を目前にしてどうにもならず、悔しいやら、悲しいやら。

夜食の後片付けに元気もなく、食器食缶を持ち冷たい飛沫に濡れながら命綱を伝って艦尾に向かった。

艦尾に着いてみると、新兵たちは食缶をそのままにして、茫然と海の彼方を眺めていた。

一面に真っ暗な空。水平線も分からない黒い海。その中に青く長い線がくっきりと浮かび、足下の艦尾から海面を真っ直ぐにどこまでも延びている。美しい、幻影を見ているようだ。

本艦は今、二十ノット以上で驀進している。二つのスクリューは高速回転で太平洋の黒潮を掻き回している。ゴーッと吠えている汽缶のエネルギーが、夜光虫の光の線となって、冷たく美しい航跡を描いていた。

ここへ来い。この美しい光の帯に乗れ。一歩踏み出すだけでお前は楽になれるのだ。そうだ、もう一歩だ、と呼んでいる。今のこの苦しみからなんとか逃れたい。飛び込もうか、一歩進むだけだ、どうしよう。

誰の目元も濡れていた。思いはみんな同じである。今ここで誰かが飛び込めば次々と行動を共にしたことであろう。

「おい皆、ゼンザイは食えたか」

突然、誰か声を出した。ハッと我に返って命を取り止めたのである。いま思い出してもゾッとする。海軍生活四年半のうち、本気で死のうかという気になったのはこの時だけであった。死に神に招かれたとは、こういうことを言うのであろう。