わが青春の追憶
駆逐艦敷波

不要物件陸揚げ

柱島に碇泊して訓練と整備を続け、同時に新兵たちもたっぷり気合いを入れられていたが、十日ほど過ぎると噂のとおり呉軍港に入港した。

呉軍港は、前にも書いたように三方山に囲まれ、前方は江田島に塞がれた自然の軍港となっている。艦隊が軍港に碇泊する時は、艦種によって係留する場所が決まっていた。

河原石という町に接したところには、潜水艦専用のブイが並んでいて、その隣に駆逐艦の係留する場所があった。

巡洋艦や戦艦、航空母艦などは沖合いに碇泊するのであるが、呉所轄の艦隊が全艦入港したときは実に壮観であった。

軍艦が軍港に入港すれば、その日から入湯上陸が許され、上陸番に当たっている者は上機嫌で出発する。残った者も明日か明後日には上陸できるのだからまずまずのご機嫌だ。我々新兵は半舷上陸だけだから、土曜日か日曜日でなければ上がれない。それでも整列がないので嬉しかった。久し振りに見る呉市の街を海から望むのも懐かしい。

「巡検終わり、たばこ盆だせ、明日の日課、弾薬搭載」

噂が真実となってきた、弾薬を搭載すれば行く先は当然戦地であろう。当時は支那事変の真っ只中である。戦地といえば中支か南支方面かと想像していた。

「おい、とうとう来るべき時が来たな。行く先は南支那か」

「いや、洋上補給訓練があったから、もっと遠い所ではないか」

「台湾あたりの警備ならよいが、あんまり危ないとこは御免だな」

下士官や善行章組は今後の行動について、いろいろと勝手に想像して心配した。

 

翌十一月十三日、朝食後ただちに水兵員は全員ダルマ船に乗せられ、曳船に引かれて着いた所が江田島の秋月という弾薬倉庫のある所であった。火薬庫は山の麓に大きな横穴を掘って、厚いコンクリートで固めた巨大なものである。これが数か所あって、各火薬庫から弾薬運搬用のトロッコ線が何本も設けられ、桟橋まで続いていた。

砲術科員である私たちは、掌砲長の指揮で作業分担が決められた。倉庫内で弾丸をトロッコに積み込む者、装薬や信管を積む者、トロッコを桟橋まで運搬する者、ダルマ船に積み換える者、それぞれ手分けして作業にかかった。

全部実弾である。演習弾は艦に残っていた全てを陸揚げした。信管も着発信管と時限信管を運んでいる。運搬は確実に手渡せ。落としたら爆発するぞと、慎重で力を入れた動作を要求された。

一方、水雷科員は魚型水雷の演習用頭部を取り外して、実用頭部を積み込み魚雷に取り付けている。一発で巨大戦艦を轟沈させる物凄い奴だ。

弾薬搭載は敷波だけではない。他の駆逐艦も巡洋艦も十五糎、二十糎砲弾を積み込んでいる。大きな弾薬倉庫内には大口径から中小口径までの各砲弾、装薬、機銃弾、魚雷、爆弾などがいっぱい保管されていた。何年間戦っても尽きることのない心強い状況である。

私たちは、十二・七糎砲弾、装薬、信管と十六ミリ機銃弾をトロッコに積み終えると桟橋に戻り、ダルマ船に積み換え、曳船に引かれて艦に帰った。今度は各砲塔の弾薬庫に納めるのだが、これがまた大変な重労働であった。何をやってもきつい仕事や苦しい作業は、新兵が率先して受け持たなくてはならないのだ。

ダルマ船を艦に横付けして、重い弾丸と装薬を、外舷から狭い舷窓を通して艦内に手送りで渡し、さらに艦底にある弾薬庫まですべて手送りで積み込むのであった。私は狭い垂直な階段の途中に陣取って、上から送られてくる弾丸を、受け取っては下に居る弾庫員に渡していっていた。一門の大砲に何百発という弾丸と装薬を積むのである。二連装、三砲塔の全部を積み終わったときには全身汗まみれ、両腕と腰が痺れて動けなくなっていた。

作業中は下士官の監督が、

「よいか、絶対に落としたりぶつけたりするな。確実に相手の手に渡せ」

「信管は回したり傾けたりするな、発火距離が狂ってしまうぞ」

「ぼやぼやするな、手早くしろ」

こうして軍港第二日目は弾薬搭載に一日中汗をかかされたが、三日目の作業でいよいよ戦地行きの支度が本格的になったのである。

「不要物件は陸揚げせよ」

不要物件というからには、日常たいして使用しない物と思っていたところ、海軍では戦闘に必要な物以外は全部不要物件として、艦内に置いてはいけないとのことであった。具体的には訓練用の器具とか装飾用具は勿論のこと、毎日使っている道具も最小限に留め、余分な物は全部軍需部へ送還してしまった。なかでも寂しい想いをしているのは、衣料品の返還であった。呉志水三〇二〇四と兵籍番号の記入してある大切な軍服など、入団の時から私と共に苦労してきた被服である。残してよいのは軍服夏冬一着ずつと、軍帽一、事業服一、艦内帽一だけだ。今までいっぱい詰まっていた衣嚢がペチャンコになってしまった。

「各班、防暑服を受け取れ」

主計科から渡された防暑服を見て皆がっかりした。カーキ色の半袖シャツみたいな薄い上着と半ズボン、そのうえ子供がかぶっているような、丸い大きな帽子であった。スマートなカッコいい水兵服とはまるで違っている。下士官も同様な服で、軍人らしくない服装である。

「なんだこりゃあ、こんなものがおかしくて着れるか」

「いよいよ南方行きか、生きては帰れんかもしれんな」

「俺はこんな服を着て死にたくはない。何処でもよいから陸上に転勤させてくれよ」

不要物件陸揚げは官給品だけではない。私物についても同様で、皆それぞれ私物をまとめ、上陸した際に下宿へ預けてくる者、小包にして家に送る者など、下士官や古い兵たちは整理に苦労をしていたが、新兵の私には陸揚げするような私物は何もなかった。

不要物件の陸揚げに続いて、今度は必要物資の搭載が行われた。燃料の補給、食料品の積み込み、備品類の取り替え、修繕などの他、呉海軍工廠から工員が派遣されて、兵器や機械電気装置などの点検調整が進められていた。さらに人員の移動があり、十六徴後期の新兵が三人乗艦してきた。私より三歳も年上の後輩であり、僅か三人だけだからと、私達と同年兵の扱いをされることになって、私達は相変わらず新兵であった。

「明日と明後日に、半舷上陸を許す」

土曜日でも日曜日でもないのに上陸とは、いよいよ最後の上陸をしてこいということであろう。新兵にも上陸を与えられたのであるが、とりわけ別れを惜しむ人もなければ、名残を惜しむ者もいない。腹一杯食べて、ゆっくり湯に入り、好きな映画を見て帰っただけであった。それでも呉の街の灯を後ろに見ながら、営兵所にさしかかったときは、寂しいしい気持ちに襲われて足が重かった。

もう直ぐ呉を離れて、何処か私の知らない遠い南方へ行かねばならない。そこでどんな困難や危険なことが待ち受けているのか、生きて再び内地に帰れるのか、私には何も分からない。

シャバともこれでお別れか、呉の街よ、祖国よ、わが故郷よ、さようなら。