わが青春の追憶
開  戦

戦必勝・攻必取

昭和十七年一月。ニューアイルランド島、キャビエング完全占領。ボルネオ島、バリックパパン占領。海軍陸戦隊ケンダリー占拠。ジョホールバール完全占領。全マレー半島制圧。

日を追って知らされる戦況は、各方面とも連戦連勝だ。帝国陸海軍の向かうところ敵なし。戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る、と決まっているような情報であった。

その頃のことである。私は掌砲長に呼ばれて、後部士官室に伺った。

「柴田は海軍に入る前、町役場の書記をしていたそうだな。今日からお前は新聞電報の解読書きをして掲示する係になってくれ」

と、いうことになった。

新聞電報とは、東京の大本営から発信された無線通信を、本艦の電信兵が受信して、艦内の掲示板に発表されるのだが、電文はカタカナで新聞係に届く。それを普通文書に直し、大きな用紙に清書して通路の掲示板に貼り出すのである。

私に与えられた役目は、電信兵が持って来た小さな受信用紙を見て、普通文書に書き換えることであった。初めのうちは用語や地名が分からないのと、適格な漢字を捜すのに苦労し、時間がかかってしまった。

「やいシバ、まだ書けんのか、戦況はどうなっているんだ、早くしろよ」

と下士官連中から催促されていた。 

シンガポールの陥落は時間の問題とのことで、艦隊はマレー半島を南に向かって進んで行った。何の目的で今から何処へ行くのかは分からないが、警戒航行を続けながらスピードを上げて進んで行く。

昼は炎のように輝く太陽の下を、夜は南十字星を仰ぎながら、新兵の勤めと作戦行動に、汗と涙の辛い航海であった。

一月下旬といえばもうすぐ旧正月である。故郷では寒い北風に震えながら、正月の支度に大変であろう。笹を刈って垣根をつくったり、大豆を煮て味噌玉を吊ったり、正月用の餅をついたり、お仏壇にお供えする飾り餅などを準備していることだろうと、家のことを想い出そうとするのだが、南方の海上で焦げ付くような暑さでは、どうにも実感が湧いてこない。

海は広い。絶え間なぐ前進を続け、何昼夜航海したのか、何処に着いたのかはっきりした記憶はないが、その後ジャワ沖海戦に参加したのである。

戦えば勝つことが決まっていたような、日本軍が波に乗っている時である。砲撃戦も雷撃戦もあったが、危険を感じた戦いではなかったから記憶が薄い。その時はむしろ実戦に参加したことで、箔をつけぐらいに自負していた。

ジャワ島周辺は、制海制空ともに日本軍の勢力圏域となったらしく、敵機の空襲もなく穏やかな日々であった。

内地を出発して、既に三か月になろうとしている。今日も赤道を越えた遠い南の大海原を航海し続けている。どこまで行っても空と海は尽きない。時々スコールに突入して、入浴と洗濯に追われたかと思うと、十数分後には洗濯物も乾いてしまうという、物凄い暑さである。

二月始め、待望のシンガポールが陥落したとの知らせを聞いた。その三日後、ジョホール水道を遡ってセレター軍港に碇泊した。

当たり一面激戦の跡そのままの惨状で、あちらこちらではまだ火災がおさまらず、軍需部と思える大きな倉庫は、砲撃か爆撃か見るも無惨な姿となっていた。軍港内には敵艦船の残骸が点在して炎上している。大きな浮ドックが沈没してマストだけが見えていた。クレーンが折れて傾いている。飛行機の残骸、列車の脱線転覆、建物の爆発による飛散跡など、戦いの激しさを物語っていた。

私は、シンガポール攻撃に直接参加したのではないので真相は知らないが、報道ではすぐにも占領されるように知らされ、勝利は当然のこととして書かれていた。この頃の皇軍の勢いはまさに『戦必勝、攻必取』の文字通り、日本軍の進むところ敵なし、と思っていたのである。

だが、ジョホールバールにおける激戦の惨状を見る限り、『我が勇猛果敢な将兵は、突撃を敢行、これを撃滅せんとす』などという勇ましい言葉とは程遠いものを感じたのである。

人間が血で血を洗い、肉を散らしての戦争である。生きているものをことごとく殺し、遺産も文化も破壊して去った跡であり、最後に生き残った者が勝利者となるのである。戦場では、正常な心を捨てての行動でなければ、これだけ壮絶悲惨な姿にはならないであろう。戦争の恐ろしさを初めて身に感じたのであった。

シンガポール島を昭南島と日本式の名称に変え、日本軍の統治下におかれることとなって上陸が許されることになった。

世界地図でマレー半島を見ると、長い半島に添って鉄道が通っている。日本の鉄道を想像していたところ、全く幼稚な施設には呆れた。一口に言えばトロッコの兄様である。小型で簡単な蒸気機関車が小さな箱を五、六両引っ張って、ガタンゴトンとゆっくりと走るのだが、車両には窓ガラスも無ければ昇降口のドアも無い。勿論トイレなどあるわけではないので、進行中に列車から降りて、ゆっくりと用便を済ませてから、少し走れば列車に追い付けるといった、実にのんびりした鉄道であった。

シンガポールの市街地は戦火の爪跡もなく、近代的な高層ビルが立ち並び、黒人、白人、有色人などの混民が一体となって生活していた。市民たちは戦争と関係なかったのだとホッとしたのである。

しかしながら、市民たちは戦火を免れたとはいうものの、日本の軍隊が市中に侵入しており、要所要所には陸軍の兵隊が銃剣を構えて警備していた。さらに私たち海軍の兵士も街を闊歩している。

このような情景を見る住民たちは、たまらない屈辱を感じていることであろう。特に支那人の怨みのこもった眼は、いつまでも忘れられなかった。

故郷に居る家族や同胞の幸せを思うとき、戦争にはどんなことをしても負けてはならないと痛切に感じ、我々軍人は祖国を護るため『死して護国の礎とならん』の教訓を改めて覚悟したのである。