わが青春の追憶
開  戦

お前宛ての信号だ

警戒航行で一昼夜過ぎると、焼けつくような猛暑が薄らいだ。三日目の朝を迎えると海の色が黒くなって、少し寒くなってきた。

「第一種軍装に着替え」

内地に帰るという噂は本当であった。久し振りに軍服を着て、水兵らしい格好になり皆嬉しそうだ。

北西の強い季節風によって、太平洋の黒潮は、うねりと高波で荒れ狂っていた。艦は軋みながら大波に逆らって進んで行く。懐かしい内地が近い、風が寒い、しぶきが冷たい。

「豊後水道を通っているぞ。内地が見える、松の木が見えるぞ」

見張り当直から戻ってきた者が知らせてくれた。生きて日本に帰って来れたのだ。しかし、戦争はまだ始まったばかりである。艦の修理が終われば、再びこの豊後水道を出て前線に行くことになるだろう。

「艦内哨戒配備、用具納め」

それっと、上甲板に上がって辺りの景色を眺めた。瀬戸内海の島々が懐かしい。松の木が見える、漁船がいる、瓦屋根の木造家屋がある。ああ、祖国に帰ったんだ、日本の国は素晴らしい。

「入港用意」

入港用意のラッパの音が一段と冴える。前部員は投錨の準備をして、錨甲板に整列。

「錨入れ」

その日は柱島に碇泊することになった。例によって夜の甲板整列をやられたが、内地に帰った嬉しさで、たいしたこともなく終わった。

翌朝、錨を揚げて早瀬の瀬戸を通り、四か月ぶりで呉軍港に入港、駆逐艦ブイに係留した。

早速、公用使を陸上の軍事郵便所や呉鎮守府に派遣して、郵便物や慰問袋を受け取りに行ったり、生鮮食料品などを搭載したのである。

夕食後、半舷上陸を許されたが、私は明日の予定であったので、艦から呉の街の灯を眺めるだけであった。

「戦地から手柄を立てて帰っても、上陸できんとは情けないなあ」

「泣くな嘆くな。明日の午後になればお前さんも上がれるのだから、誰かさんが喜ぶぞ」

「下宿の婆さん、俺が生きていたらびっくりして、下宿代忘れてくれんかなあ」

「艦隊入港(妻に用事あり)の電報を、家に打っておくか」

上陸できなかった残留組も、久し振りの軍港泊まりに気をよくして嬉しそうである。

翌日、午前中は大掃除で 『回れ、回れ』 で汗をかき、一方、海軍工廠から技術官たちが乗り込んで来て、検査、点検、修理などが始まった。

 

昼食後、左舷甲板に出て食器の砂洗いをしていたところ、当直下士の大林兵曹が私の所へ来て、

「柴田、お前宛ての信号だ。見たら署名しろ」

と、私の方に信号用紙を挟んである板を差し出した。艦長か砲術長や水雷長ならともかく、新兵の私に信号とは何事だろうと、恐る恐る手に取って見た。

「宛て、シバタヨシゾウ、発、フジシロ、本文、チチメンクワイニキテイル」

郷里の白谷出身の藤城要兵曹長が海兵団に居られ、私に連絡してくれたのだ。それにしても親父さん本当に来たのだろうか。どうして、私が戦地から帰ったことを知ったのであろう。

「おいシバ、お前は艦長並みだな、信号が来るとはたいしたものだ」

下士官や善行章組に冷やかされても、上陸時間が来なければどうしようもない。午後の作業は手につかず、やっと夕食を終えて上陸することができた。境川の営兵所を無事に通過して、山の手にある藤城兵曹長のお宅に走った。

狭い急な坂道を登ったところに、藤城さんは家族と共に住んでおられた。奥さんのやすえさんは、私の村(波瀬)が実家であるため親しくしており、親父さんは奥さんを尋ねていったのであろう。

藤城さんのお宅で私を待っていたのは、父信道のほか、私を子供の時から育ててくれた姉夫婦のわきと憲治の三人であった。

年老いた親父さんを連れて、愛知県の果てからこんな遠い呉の街まで来ることが、いかに大変なことであったかと思うと、つい目が潤んでしまう。

私が部屋に上がると、藤城さん夫婦は子供を連れて奥の間に去って行った。

姉が差し出してくれたボタモチにかぶりついた。故郷の波瀬の味がする。うまそうに食べている私の様子を見て、新兵の苦しみのすべてを知ろうとしている。肉親の愛情と優しさが身に沁みて嬉しい。

おっ母さんも元気でいるとのこと。漁業は網も油も手に入らないので止めてしまったこと。農業は出征兵士の家庭だから、近所の人たちが手伝ってくれるので心配ないこと。村の誰が召集令状がきて軍隊へ行き、誰が戦死されたとか、波瀬の様子を知らせてくれる。

さて、私のことを言わなければと思うのだが、……心配かけたくない。

「まあ直ぐ一年になるで大丈夫だ。辛いときも過ぎたし軍艦にも慣れたで何も心配はいらん。戦地で危ない目に遭ったけど、わしはそうむやみに死にゃあせんで。おっ母さんにも心配せんように言っといて」

「そいで、こんな遠い所まで、仕事を休んで来るのは大変だらあで、もう来んでもいいで。わしは心配いらんから」

私が海兵団に居るうちに、一度面会に行かなければと心配していたとのこと。村から出征している家庭では、三回も四回も面会に行っているようだが、豊橋や名古屋ぐらいなら当然だろう。

そうこうしているうちに大東亜戦争になった。手紙も来なくなったので、矢も立てもたまらず呉に出かけて来たのだと言うことであった。それにしても、私が戦地から帰った日に来るとは、運が良かったということだけであろうか。

 

この面会の出発に当たって、こんなエピソードがあったそうだが、そのことは私が復員してから知ったのである。

当時、親父さんは豊橋市の牟呂に住んでいて、姉夫婦は田原町の波瀬に居たのである。豊橋駅東海道線何時何分発、下関行きの普通列車に乗ると話をして、姉夫婦は早めに渥美電車に乗って豊橋駅で待っていたが、親父さんは一向に来ないのだ。列車がホームに入っても姿を見せない。仕方なく二人だけで出発したのである。

ところが、大阪を過ぎ神戸に近づいた辺りで、天から降ってきたのか、地から湧いたのか、親父さんが車内の通路をヨボヨボと歩いて来るのを見つけて驚いたという。視力の弱い親父さんだが、若い頃から旅に慣れていたので、乗り遅れたことを知り、豊橋から特急列車に乗って追いかけ、大阪で姉たちの汽車に乗り換えて、車内を歩いていれば見つけてくれると思ったそうである。

 

藤城兵曹長さんの家族も入ってきて、励ましてくれる。

「柴田君は、いま一生懸命に頑張っとります。大丈夫、心配いらんです。私も呉に居る限り気をつけとりますから」

もう別れる時が近づいた。今日の汽車に乗って帰るので、藤城さんのお宅を出たのである。

途中にあった写真館に入り、家族揃って記念写真を撮った。この写真は家に送ってもらったため、数少ない記念写真として今も残っている。

年老いた親父さん。子供がないため末っ子の私を子供として暖かく育ててくれた姉夫婦。家で待っているおっ母さん。みんな苦労が多いことだろう。いつまでも元気で居てくださいと心の内。これで二度と会えるかどうか。

呉の駅に来てしまった。改札口で別れなければならない。私のことを心配しながら列車に乗った親父さんたち。いつまでも達者で居てくださいと、心の中で手を合わせた。

ボーッと発車の汽笛が鳴った、ガタン、ゴトンと列車が動きだした。これで見納めだ。

お父さん、姉さん、義兄さん、家に居るおっ母さん、さようなら。涙がとめどもなく流れる。

会う時は本当に嬉しいが、別れる時は身を切られるように辛く寂しい。戦時中における新兵と家族の気持ちは、その時代を体験した者でなければ理解してもらえないだろう。

思いがけない家族との面会も、一瞬のうちに終わり、また私は一人ぼっちになった。