わが青春の追憶
呉海兵団

兵舎とは

呉海兵団には兵舎が八棟並んでいる。赤煉瓦造りの古めかしい建物と、比較的新しい木造りだ。どの兵舎も二階建てで中央の入口から左右に別かれて一室ずつの居住区となり、一棟の兵舎に四個分隊が収容できる。そのうちの第三兵舎から第七兵舎まで兵科の新兵が入ったようである。いちばん奥にある第八兵舎だけは鉄筋コンクリート造り四階建ての近代兵舎で、ここには機関科の新兵がいたようだ。

 

海兵団の兵舎とはどんなものか、簡単に案内しよう。

一個分隊の兵舎内は、学校の体育館のようなだだっ広い板の間(甲板という)になっていて、部屋の中央に幅2メートル程の通路が一本通っている。その両側が十二区画に仕切られており、その間に一個教班の新兵が入る。仕切られているといっても壁があるわけではなく、頭上の太い梁(ビームという)が境界線の目印となる。

各教班には、木製の丈夫で大きく長い机が二つと、細長い腰掛けが四つあり、机の端の窓側には教班長が座り、十七名の新兵は机の両側に座るのである。これが机を出したときの定位置だが、この定位置は食事のときだけで、常には机も腰掛けもビームの上にあげておく。

寝るときは、通路の上部にある吊床格納庫(ネッチングという)から吊床を降ろし、ビームからビームに渡して吊る。吊床の中には藁布団と三枚の毛布が入っていて、場所をとらない寝室となる。このほか、手箱(筆記用具や洗面用具など、私物の雑用品を入れる小さな木箱)、帽子缶、衣嚢などを置く棚が部屋の上部や隅に設けられている。

机と腰掛けをビームの上にあげてしまえば、大きな教室とも講堂とも言える広い場所ができる。だから講堂になったり食堂になったり、居間であり寝室でもあり、特訓の教室にもなるというわけだ。ときには、軍人精神を叩き込まれる道場に早変わりすることもあり、まことに便利にできている。今の学校でいえば、普通教室、特別教室、体育館から食堂や寄宿舎までの機能をこの兵舎の一室で間に合わせることができ、実に合理的に使用していた。

 

合理的といえば、海軍ではどんなものでも使用方法がうまく工夫されていて、一つの道具で三通りも四通りもの使い道がある。その代表的なものである手箱の使い方を説明しておこう。

手箱とは、どこの家庭にもある救急箱ほどの大きさで、なんの変哲もない木の箱である。中には筆記用具とか洗面用具、それに糸や針など私物の雑用品が入れてある。ときどき無断検査があって、常に整理整頓しておかないと使用止めになる恐れがある。

襦袢や靴下などの繕いをするときに手箱のご厄介になるのは当然であるが、一日の課業が終わった巡検後や日曜の午後の休憩中にこの上で手紙を書いたりする。また、兵舎内において分隊長や分隊士からの精神講話のときはこの手箱に腰を掛け、教科書による授業や講義、または試験などの場合には、床に座って手箱を机として使用するのである。

ときには、練兵場に出て新兵全員が軍楽隊の演奏を聞いたり、軍医長から衛生講話を受けたりすることがあった。その際に手箱が椅子として使われるのは勿論だが、もしも軍医長の質問に答えられなかったり、教えられたばかりの軍歌を一人で歌う自信がなくて手が挙がらなかった時は、この手箱が二度と忘れないように教えてくれる道具に早変わりするのである。

その特別教育は、兵舎に戻ってから全教班長の指導のもとに、先程手を挙げた者も、挙げなかった者も、全員の臨時共同特訓が行われるのだ。手箱を両手に持って長椅子に腰を掛け、机の下に足をいっぱい伸ばし、手箱をオールにしてカッターを漕ぐ姿勢をとる。いわゆる宮島遠漕という罰直が始まるのである。呉軍港から宮島まで漕ぐのだから約二時間、教班長の号笛に合わせて、腕を伸ばし体を前にいっぱい曲げ、続いて後ろに反り返る。五分もたたないうちに汗が床にしたたり落ちる。

「こんなことでフラフラしゃぁがって宮島まで行けるか。もっと気合いを入れて漕げ、それっ!」

だんだんと軽い木箱が重くなり、ついには両手で支えきれず倒れる者が出てきた頃、やっと特訓が終るのであった。

このように兵舎というものは、ときにはカッターになったり、軍艦や戦場になったりして、実に有効に使われるのである。