わが青春の追憶
開  戦

さようなら「敷波」

河原石の駆逐艦ブイに係留していた「敷波」は、三日目にブイを離れ、曳船に引かれて海軍工廠の第三ドックに入った。

艦がドックに入渠したときは、いろいろ守らなければいけない注意事項がある。まず、艦内では絶対に走ってはならない、禁酒、禁煙、火気厳禁、重量物の移動禁止などである。そのため炊事場は使用できないので、陸上の調理場から食事を運ぶのである。

また、夜間の休眠時が大変であった。海軍工廠の工員たちは、昼夜交代での突貫勤務である。我々の休憩も休息も関係なく修理作業を続けるのだ。兵員たちが寝静まってからでも、鉄板の鋲打ちなどをやるため、喧しくて寝るどころではなかったが、文句は言えない。戦争中の軍艦は一時間でも早く戦場に送らねばと、昼夜休みなく仕事をするのである。

 

ドックに入った明くる日、私と井川三水は砲術科先任伍長に呼ばれた。

「お前たち二人は、本艦でよく働いてくれたが、明日退艦して横須賀の砲術学校へ行ってもらうことになった。今から退艦準備をしてくれ。長い間ご苦労であった。学校でしっかり勉強してまた『敷波』に来てくれよ」

先任伍長から砲術学校行きの命令を受けたが、そんな筈はないと私は耳を疑った。それにはこんなわけがあったのだ。

昨年の十一月初め頃、各練習生希望者は呉海兵団に集合して、それぞれ学校別に試験が行われた。私は丙種飛行予科練習生を受験し、砲術学校は受けなかった。そのために砲術出身の班長や下士官たちは、ご機嫌斜めであった。それなのに、なぜ受験しない砲術学校に行かなければならないのか、丙種の試験には自信があったのに。

後で想像したことだが、藤城兵曹長さんが私の家庭のことを心配して、「お前は、ただ一人の長男ではないか。飛行機はやめろ、大砲がいいぞ」と、いちばん危険な飛行機乗りから、大砲に変更してくれたのであろう。その時は悔しかったが、現在私が生きていられるのは藤城さんのお陰である。その藤城さんご自身は沖縄の激戦で戦死されたのである。今は心から藤城さんに感謝し、ご冥福をお祈りする次第である。

 

 翌三月二十三日、朝食時に各兵員室へ退艦の挨拶に廻った。

「お食事中のところ、一言ご挨拶を申し上げます。私たち二人は横須賀海軍砲術学校に入校するため、本日退艦することになりました。『敷波』乗り組み中は公私とも皆様方に大変お世話になり、衷心より厚くお礼申し上げます。お陰をもちまして大過なく勤務することができました。最後に皆様方のご健康と、ご武運をお祈りいたしまして、お礼のご挨拶といたします。有り難うございました」

「ご苦労だった、お前たちも元気で頑張れよ」

「また『敷波』に来いよ」

今まで、叱られ、殴られ、怒鳴られてきた人たちだが、別れるとなると寂しく懐かしい。私たちを励ましてくれる。

想えば昨年八月十五日、九州佐伯湾で駆逐艦「敷波」に乗り組み、新兵として厳しく鍛えられ、戦場においては命を共に戦ってきた艦である。辛く悲しい思い出の多い七か月であった。

重い衣嚢を肩に担ぎ、風呂敷包みを片手に持って、板桟橋を渡りドックの階段を上がった。地上から見下ろす「敷波」は細長く小さい。この艦も修理を終えれば再び戦場に行くであろう。さようなら「敷波」、さようなら皆さん。

 

これで駆逐艦「敷波」を去り、呉海兵団の補充分隊に二日間居て、横須賀の海軍砲術学校に向かったのであるが、ここで、「敷波」のその後ことを記しておこう。

昭和十九年初め頃、私は駆逐艦「磯風」に乗っていて、トラック島に碇泊した際、たまたま油槽船に横付けして燃料の補給を「敷波」と一緒に受けたことがあった。

懐かしい一番砲塔、艦橋、舷門、カッターなど、艦の様子に変わりはない。若い兵員たちは知らない者が多かったが、古参の人達は私を覚えてくれていた。

その後、何処の戦場に行ったのか、「敷波」の行動は分からない。

終戦直前に、元「敷波」乗組員であったという人から、

「十九駆逐隊の『敷波』は、昭和十九年九月十二日、東支那海で沈没した。それで全員が戦死したよ」

助かった者は一人もない、轟沈であったそうだ。あのまま「敷波」に乗っていれば私も既に死んでいるのかと、同僚たちの戦死に、思わず「南無阿弥陀仏」と、心の中で唱えるのであった。