わが青春の追憶
砲術学校

磨きあげなん、我が伎倆

昭和十七年四月一日、練兵場において入校式が厳粛に行われた。砲術学校長である海軍中将宮田義一閣下から、新練習生に対して訓示があった。

「我が大日本帝国は、いまや億兆一心、国家の総力を挙げて聖戦に必勝の努力を尽くしている。帝国海軍も全力を傾注して戦っており、一人でも多くの将兵を戦線に送るべきところ、諸君たちは多くの中から選ばれて、本校の練習生となったのである。同僚たちは今も前線で戦っていることを肝に銘じて、一日も早く技を練り、心を養い、諸君たちが本校で修得した技倆を、戦場において遺憾なく発揮され、陛下の御為に尽くされんことを願う」

『第二十二期、普通科測的術練習生幹部班』、略して『普測幹』

これが、私の入校した砲術学校における正式名称である。といっても幹部班は一個分隊だけだ。

同時に入校した水上班や対空班は、第九十期になっていて、各班とも三、四個分隊の編成であった。入校式を無事に終えて兵舎に戻ると、幹部班の分隊長である海軍特務中尉小林好惠からも訓示があった。

「測的幹部班は、砲術のうち最も高度な知識と技倆を必要とするのである。そのために優秀な者たちばかりを集めてあるのだ。従って他の分隊の模範とならなければならない。大砲が順調に発射されても、弾丸が目標に命中しなくては戦果はない。また、測的班がいかに正確な距離を測定しても命中しなければ何にもならん。幹部班としての諸君は、砲術の最も重要なことを勉強するのだ。一個分隊だけの少数だが、誇りをもって努力されんことを望む」

幹部班の人員は二百三十人、これを十三班に編成して、私は第十二班に入ったのである。班員十七名、そのうち一水(善行章のないオチョーチン)が一名と二水が一名、あとは三水ばかりであるが、三水のうち先輩が三人という班であった。

それでも実戦経験者は少ない。戦地に出撃はしたものの一度も戦闘をしたことがないという、戦艦や陸上勤務の者が多かった。だから新兵であっても、戦闘の話になれば自慢できたのである。

「俺が第十二班の教員、松本一曹である。皆しっかり勉強して他の班に負けないよう頑張ってくれ。二百三十人中、一番の成績の者には天皇陛下から恩賜の時計が頂けるぞ。うちの班から誰か恩賜の栄を受けるよう、しっかりやってくれ」

善行章三本の松本定美教員は、真面目で心の暖かい立派な教員だと思った。なによりも乱暴な人ではなさそうなので安心したのである。

「それから、班の指揮をとったり、俺との連絡をやってもらう次長を皆の中から選んでくれ」

当然、一水が選ばれた。

「では何でも困ったことや、分からないことがあったら、次長に言って俺に相談してくれ。今日は身の回りの整理をしておけ、明日からしぼるぞ」

第十二班の十七名中、呉所轄の兵は私の他三名だけで、あとは横須賀八名、佐世保三名、舞鶴二名という班員である。田舎者の自分には他人のことは言えないが、ここで初めて東北弁を聞いたときには、驚きと可笑しさとともに、理解するのに苦労した。

 

いよいよ砲術学校での本格的な教育が始まった。まず朝は総員起こしで吊床訓練をたっぷりと味わい、次に三百メートルほど離れている海岸まで早駆け、宮城に向かって遥拝、腹の底から張り上げての詩吟朗読。続いて上半身裸になって、汗が流れるほどの海軍体操をやらされるのだ。

砲術学校での体操は、実に徹底して厳しく訓練されるのであった。それは、各部隊に配置された時、体操の号令をかけるのは、砲術出身者がやることになっているためである。

掃除の『回れ、回れ』と食卓番は、新兵の職務であることは何処でも同じである。一日の課業は概ね次のようであった。

 

測距、変距、発砲電路、配電、数学などを教科書によって教えられるものと、大砲、機関銃、測距儀、射撃盤、探照灯、発電などを実習によって勉強するものとがある。

さらに、陸戦演習は海兵団とは比較にならないほど、厳しく激しい訓練が行われた。

「貴様ら、ここを卒業して実戦部隊の勤務に就いたら、もう知らないとは言えんのだぞ。左マーク(特技章のこと)を付けておれば、測的術については一人前として配置され、『分かりません』、『できません』などとは絶対に言えないのだ。今のうちにしっかりと頭の中に叩っ込んでおけ」

さらに砲術学校出身者は、海軍兵学校を始め予科練や海兵団などの教員として活躍している者が多い。それは本校の厳格な規律を、海軍全般に教えるためであるのだ、と誇りを持ちながら、軍人精神と百戦練磨の技倆を磨き込まれるのであった。