わが青春の追憶
砲術学校

左マークの重さ

艦務演習も無事に終わり、横須賀の校舎に戻って一息つく暇もなく、砲術学校連合の陸戦演習のため辻堂へ出発したのである。これを辻堂演習といって、練習生最後の陸戦訓練とされていた。

辻堂の海岸近くの農家を借りて各班の宿舎とし、五日間ほど野山や砂浜を駆けずり回り、激しい陸戦演習をやらされた。それでも夜は久し振りに民家に泊まれたので、何となく故郷の生活を思い出し、苦しい中にも楽しいこともあった。

青畳の上に座って飯台での食事、五右衛門風呂での入浴、シャツと袴下だけで庭の散歩もできた。

「兵隊さんたち毎日ご苦労さんです。家の息子も召集令状がきて陸軍に行っていますが、皆さんのように元気で居てくれるとよいのですが」

「息子さん召集されたんですか、親父さんも留守を大変ですね。私たちは若いからよいが、召集の息子さんこそご苦労さまです」

「兵隊さんも召集兵ではないですか」

私は子供の頃から老けて見られる、たぶん二十五歳くらいに見えたのであろう。 

辻堂演習の最後は、海軍陸戦隊の最も得意とする追撃退却戦であった。辻堂から江ノ島海岸の砂浜を走り、鎌倉の市街地を駆け抜けて、横須賀まで一挙に突っ走った。海兵団での原村演習よりも苦しかったが、もうすぐ卒業できる、特技章が左腕に付く、左マークが、とがむしゃらに走って最後まで頑張ったのである。

砲校練習生として最後の日曜日となった。毎週日曜日の午後は外出できたのであるが、一人で勝手に市中を歩き回ることはできない。各班ごとに下宿が指定されていて、教員に引率されて下宿に行き、昼寝をして夕方帰校するだけであったが、下宿で教員から体験談を聞くのが楽しみであった。

「お前たちもいよいよ卒業だな。卒業すればすぐにも第一線の艦隊勤務に就くことになろうが、特技章をもった兵は重要な配置に付くことになる。たとえ三等兵であっても、知識、技術は免許皆伝として扱われるので、知らないとは言えなくなる。特に測的幹部の人員は少ない。他に相談する仲間もいないぞ。だから学校での教えを基本として、実務は自分で勉強するしかない。左マークの手前頑張るんだ」 

卒業後の勤務先が発表された。戦艦、巡洋艦、航空母艦、基地隊など、それぞれ勤務場所を知らされたが、私を始め呉所轄の者二十名は呉海兵団に行けとだけだ。今度の勤務は何処であろう。

「諸君たちは、本日砲術学校の教育課程を終了して、立派な海軍軍人となり本校を巣立って行くのである。皆それぞれ勤務先は違うと思うが、砲術学校の出身であることに誇りをもって、磨き上げた技倆を十分発揮してくれ。前線では諸君たちを待っている。祖国のために奮励努力せられんことを願う」

第二十二期普通科測的術練習生の卒業式における、海軍中将宮田義一校長の訓示であった。

 

昭和十七年十月末、横須賀海軍砲術学校の辛く苦しかった校舎とも別れ、想い出のトンネルをくぐって街に出た。横須賀駅に集合した呉行きの者は、他の勤務地の者と別れてホームに立った。右腕に三等水兵の錨り一つの軽いマークと測距儀に電気の形をした新しい特技章を左腕に付け、左マークの責任の重さを感じながら、まだ知らない次の勤務に就くため、汽車に乗って呉に向かったのである。

懐かしい呉海兵団の団門をくぐり、砲術学校から来た二十名の兵は本部兵舎前に整列した。ここで私たちの勤務先が知らされるものと思っていたところ、意外にも当直将校から、

「お前たちは、学校を出てすぐに艦隊勤務に就いて働きたいのであろうが、予定されている艦船は今作戦行動中である。作戦を終えて内地に戻るまで、この海兵団で待ってもらう」

というわけで、海兵団の補充分隊に入ることになった。

例によって、吊床訓練と軍服を事業服に着替える競争が始まった。学校での成果を見せるのはこの時とばかり手早くまとめた。

「流石に砲術学校卒業生だな、気合いが入っている。他の兵たちの模範となるよう、補充分隊であっても頑張って欲しい」 

補充分隊とは、勤務場所が決まるまでの下士官兵を収容する分隊であるが、中には一年も二年もここに居る者がいる。どういうものか行く先のない兵隊が随分と多いのに驚いた。

海兵団に来て十日たち、二十日間が過ぎた。しかし一向に勤務命令はない。ちょっと心細くなってきた、どうなっているのだろう。

補充分隊での仕事といえば、決まった計画はなく、その日にならないと分からない。軍需部に行って食料品や衣料品の運搬をやらされたり、弾薬を火薬庫から山頂の砲台まで運んだり、時には新準士官教育の教材兵になったりで、使役ばかりやらされていた。せっかく学校に行って特技を修得してきたのに、雑用兵では情けない。左マークの特技章が泣いているぞと叫びたい。 

十一月末になってしまったが、なんの指示もない。

「十二月から海軍の等級が変わるそうだ。俺たち三等水兵を一等水兵と呼ぶようになるらしい」

噂は本当であった。だが階級の呼び方が変わっただけで、別段偉くなったわけではない。

 四等水兵は、  二等水兵に

 三等水兵は、  一等水兵に

 二等水兵は、  上等水兵に

 一等水兵は、  水兵長に

 

陸軍と同じ呼び方に変えただけであった。下士官も、 

 三等兵曹は、  二等兵曹に

 二等兵曹は、  一等兵曹に

 一等兵曹は、  上等兵曹に

変更され、兵曹長以上は変わらなかった。 

ところが、私たち十六志前期の者たちは、この階級制度の変更と同時に進級があった。海軍に入って一年半、汗と涙の末やっと二等水兵になって、右腕に憧れの錨二つのマークが付いた途端に上等兵に変った。小さな錨の上に二本の線が付いただけで、進級した感激も嬉しさも湧いてこない。そして補充分隊には新兵はいないのだ。だから私たちは何時までたっても新兵であった。

 

十二月二日、夕食を終えて一息ついていた。

「砲術学校卒業者、集まれ」

氏名を呼ばれた者は、次々と事務室に入っていく。

「水上班、藤原水長。測的幹部、柴田上水」

事務室に入ると、下士官が待っていて、

「お前たち二人は、第一線で活躍していた駆逐艦「磯風」の乗組員を命ずる。「磯風」は今佐世保軍港にいるが、すぐ戦地に向けて出港する。祖国のためにしっかり奉公してくれ、明早朝ここを発って佐世保に行ってもらう。今から外出を許す、最後の呉の街と思え」

駆逐艦「磯風」、私が運命を共にする待ちに待った艦が決まった。「磯風」とはどんな駆逐艦であろう。

特別外出を許されて街に出たが、好きな映画も見ず、食堂にも入らなかった。ゆっくりと風呂に入ってこれまでの垢を落とし、上等兵になった記念写真を撮っただけで海兵団に帰った。

家族の顔が目に浮かぶ。手紙を書くこともできないが、私はもうすぐ戦地に行きます。二度と故郷に帰ることはできないと思います。元気でいて下さいと東の空に向かって手を合わせた。