わが青春の追憶
駆逐艦磯風

新鋭艦磯風

このたび乗り組みを命じられた駆逐艦「磯風」は、帝国海軍が誇る甲型駆逐艦「陽炎」型の改造艦として、昭和十五年十一月、佐世保海軍工廠で建造されたた最新鋭の一等駆逐艦である。

「磯風」は第十七駆逐隊に編入されており、「谷風」「磯風」「浜風」「浦風」の四隻で編成され、開戦以来、ハワイ奇襲作戦、ミッドウェイ海戦、ソロモン海戦など、機動艦隊の護衛艦として活躍してきた歴戦の駆逐艦であった。

「磯風」の装備は、五十口径三年式十二・七糎連装砲三基六門、九二式六十一糎魚雷発射管四連装二基、九三式酸素魚雷十六本、推進力は艦本式衝動タービン二基、ロ号艦本式主缶三基、出力五万二千馬力、速力三十七ノット、航続距離は十八ノットで五千海里となっている。

艦の大きさは、全長百十八メートル六十センチ、最大幅十メートル八十センチ、排水量二千五百トン、乗組員二百四十人と、駆逐艦としては大型で強力な攻撃兵器を装備した艦であった。兵器の位置や居住区などは、前に乗っていた駆逐艦「敷波」と殆ど同じであった。

何よりも私が気に入ったのは艦名だ。故郷の氏神様である雷電神社の境内の西側が崖になっていて、崖下には大きな岩石が海中まで続いている。この磯に北西の風が吹くたびに、大波が岩に砕けてしぶきを上げている。子供の頃はこの磯で天草や大アサリを採っていたのだ。こんな故郷を思い出す艦名が嬉しい。

 

昭和十七年十二月四日、藤原水兵長と私は呉からの長い旅を終え無事に佐世保駅に着いたが、早朝から艦に行くこともないだろうと、駅前の食堂に入って食事をした。

「柴田は駆逐艦の経験があるからよいが、俺は船が初めてだ。航海中はガブルだろうな」

「駆逐艦は揺れますが、すぐ慣れますよ。藤原さんは今まで何処に居られたんですか」

「俺は呉の防備隊に居て砲術学校に行ったんだ。艦船の経験がないから心配なんだ」

藤原さんは真面目そうな人柄だけに、しきりと船酔いを気にしているようであった。

目的の「磯風」は、佐世保海軍工廠内の岸壁に横付けされていた。今から「磯風」に乗り込むのだと思うと、心も体も極度に緊張する。以前勤務していた「敷波」に乗艦するときとは違い、もう私は新兵ではない上等水兵だ。特技章もあるぞ、と自分に言い聞かせるのだが、気の弱い私は自然と新兵の気持ちになってしまう。いっそ「磯風」でも新兵を続けてやろうかと、気を取り直して衣嚢を肩にして歩いた。

岸壁に掛かっている板桟橋を渡り、「磯風」の舷門に立って当直下士官に赴任を告げた。しばらく待っていると特務少尉がやって来た。

「砲術学校から来たというのはお前たちか。俺は掌砲長だ。本艦は開戦以来幾多の海戦に参加してきた名誉ある艦だ。これから直ちに戦地に向かうが、お前たちも肝を据えて勤務するんだぞ。それでは藤原水長は二番砲だ。柴田上水は探照灯だ。おい当番、二人を班まで案内してやれ」

掌砲長から探照灯の係を命じられ、連れて行かれた所が第二区という前部兵員室の内の下段になっている狭い部屋であった。

「お前は第一分隊の四班だ。班長はここに見える伊藤上曹だ。挨拶しろ」

「砲術学校からまいりました柴田上水であります。一生懸命やりますから、お願いいたします」

「柴田上水には探照灯長をやってもらう。ここに居る田中水兵長も探照灯の係だ。先輩だからよく教えてもらい勉強しろ。管制機長の福沢上曹は今いないから後で挨拶をしておけ。柴田しっかりやれよ。これから戦地だぞ」

 

第一分隊第四班とは、砲術科分隊のうち測距、探照灯、電路の班であった。

班員の構成は、

班長の伊藤上曹、善三、三メーター測距儀

一分隊先任伍長の福沢上曹、善四、管制機長

高見二曹、善二、二メーター測距儀

田中水長、善一、探照灯

堀内一水、探照灯伝令

そして私の六名が班員となっている。

人員の少ない班だが古参下士官が居るため、気を使うことが多いだろうと思う。

昼食の支度を済ませて、私は藤原さんと艦内の各班に挨拶回りをした。

「食事中のところ一言ご挨拶を申し上げます。海軍水兵長、藤原正男」

「海軍上等水兵、柴田芳三」

「私達二人は、本日から『磯風』乗り組みを命ぜられました。皆様方に大変お世話になりますが、もとより未熟者で何も出来ませんので、宜しくご指導ご鞭撻をお願いいたします」

藤原さんの挨拶が終わり、二人で敬礼をした途端に、

「何も出来んような者は『磯風』では用はない、何処へでも行け」

ヤジが飛んできた。

「お願いいたします」

もう一度挙手の敬礼をして、逃げるように各班を回ったのである。

第四班には堀内という一等水兵が居た。これは十七年徴兵だから年齢では私よりも先輩だが、海軍のしきたりに従ってもらうほかない。何にしても私より後輩の兵と一緒になったのは初めてである。よおし、このまま新兵を続けてやろうと、堀内一水に艦内の様子を聞きながら新兵と同様に、掃除の『回れ回れ』、食卓番、靴磨き、舷窓磨き、上官の衣服の手入れ、洗面器磨きなどに動き回った。

その日の午後、早速課業に引っ張り出され、探照灯の操法訓練が行われた。先輩の田中さんは親切に教えてくれるのだが、掌砲長からやたらと怒鳴られた。

「なんだ貴様、砲術学校で何を勉強してきたんだ。田中に教えてもらわなくて自分で覚えろ。もう一度照射するから炭素棒の位置を覚えろ」

と掌砲長は容赦なくゴツンとくる。

 

ここで、探照灯の仕組みについて簡単に説明しておこう。

暗夜の空にくっきりと光の線を発し、その明るさは一万メートルの遠方において、新聞記事が読めるほど強い。光の源は電気には違いないが、大きな電球の光ではない。その原理は至極簡単である。電線がショートしたときパチパチと小さな青白い火花がでる。この光を大きくして長く続くようにし、それを鏡で反射させたのが探照灯である。

プラスとマイナスの電気をショートさせるといっても、電線を直接接触させるものではない。陽極炭素棒にプラスの電流を、マイナスの電流は陰極炭素棒につなぎ、両極の炭素棒を接触させてから電源を入る。電流が通じると接触点に小さな光が発生し、この両炭素棒を徐々に離してやると、電流は大きな光となってプラスからマイナスにながれるのだ。

探照灯の理屈は至極簡単だが、実際の操作は苦労の多い仕事であった。艦橋にある管制機で操作すると、後部にある探照灯は自動的に方向を変え、シャッターを開けて照射するのである。探照灯側にいる私は灯の調整、つまり炭素棒に電流が順調に流れるように操作をする役目である。といえば簡単な役のようであるが、絶えず調整していないと光が安定しない。その上陽極炭素棒の消耗が早く、これを補充するのが大変であった。

一本の陽極炭素棒の長さは二十センチほどで、使用時間は十五分くらいである。シャッターを開けて照射するのは僅か十秒か二十秒だが、シャッターを閉めたまま点灯している時間は長い。炭素棒が減って短くなればその度に取り替えなければならず、それが実に大変な作業であった。なにしろ灯内の器具は光線で真っ赤に焼けている。その灯内に上半身を潜り込ませて、素早く炭素棒を取り替えるのである。衣服が器具に触れるとジャッと音をたてて焦げる。さらに、空気が熱く喉も肺の中も焦げそうだ。

炭素棒の取り替えをやっとの思いで済ますと、引き続いて点灯されるのだが、次の心配は炭素棒の状態である。炭素棒が少しでも湿気を含んでいると、火の粉が多く出て光が安定しない。その度に掌砲長から怒鳴られ殴られるのであった。

掌砲長には厳しく絞られたが、班員の方たちは皆良い人たちであった。善行章三本もつけている伊藤班長は真面目で静かな人だ。班長よりも古参である砲先(砲術科先任伍長の略称)の福沢兵曹は、愉快な方で皆から慕われているようだ。高見兵曹もおとなしそうな人だ。良い艦の良い班に入ったことが嬉しかった。

私が「磯風」に乗艦した際に、何人か転勤したようである。大きな作戦を終えて内地に帰ったときは、兵員も移動されるのであろう。

 

「艦の修理が一通り終わったらしい、そろそろ出港だな」

「今度も南方行きか、何処でもいいが危ないとこは御免だな。ミッドウェーの時はもう駄目かと思った」

「空母は四隻とも爆撃で炎上しているし、巡洋艦『三隈』と『鈴谷』は衝突大破するし、敵の艦載機は頭上にわんさといて襲ってくる。生きた心地はなかったぞ。どうだ柴田、お前はまだ戦地に行ったことはないだろう、恐ろしいぞ」

「はい、私は開戦のとき駆逐艦『敷波』に乗っていて、マレー方面に行っておりました」

「そうか、柴田は戦争体験者か、それなら大丈夫だな」

弾薬も燃料も満タンに搭載され、食料品も積み込んだ。兵員も充実され、「磯風」は戦闘準備を終えて佐世保軍港で待機していた。

昭和十七年十二月十七日、「磯風」は夜明けと同時に岸壁を離れて佐世保を出た。美しい緑の島の間を通り抜け、一路南に向けて進撃を始めたのである。

私が「磯風」に乗艦して最初の、あるいは最後の出撃になるかもしれない。「谷風」「磯風」「浜風」「浦風」と、第十七駆逐隊は愛しい母国を後にして大海原を驀進している。東支那海の大波をけ散らしながら、第五戦隊の巡洋艦たちと共に南に向かった。