わが青春の追憶
駆逐艦磯風

三日間の休暇

昭和十八年三月、日本近海は北西の強風が吹き荒れて、海上は凍りつくように冷たかった。「磯風」はソロモン海域の猛暑から、一挙に寒風の黒潮にぶち当たって震え上がってしまった。一着だけ支給された一種軍装に着替えたが、身も心も寒かった。

懐かしい豊後水道を通り瀬戸内海に入った。異様な姿の本艦に出会い、漁船たちは驚いたようにこちらを見ている。行き交う商船も遠方から船旗を掲げて敬意を表してくれる。

我々はいま激戦地から帰って来たのだ。夢に見ていた内地に来たのだ、と嬉しさが込み上げて自然と目頭が熱くなる。この感激は実際に戦地から帰還した者だけが味わう喜びであろう。ああ、生きて帰って来たのだ。

その日は柱島沖に碇泊することになった。長い航海を終えたのであったが、兵器の手入れも甲板掃除もせず、訓練もなく警戒配備も必要ない。生命の危険が去ると、今度は新兵としての危機が待っている。今夜あたりストッパーが飛んでくるのではないか。

久し振りに夕食後、

「武技遊戯許す、酒保開け」

各班に酒が一升ずつ配られた。新兵たちにも公平に湯飲みに半分ほど注がれたが、私は先任伍長に差し上げた。

酒に酔って歌を唄いだした。訳のわからないことを怒鳴る者も出てきた。男ばかりの社会に酒が入ると、喜怒哀楽を極端に表現するもので、泣き上戸もあれば、喧嘩を始める奴も居る。

酒のお陰で、予期していた夜の整列は忘れられ、久し振りに深夜の当直も、敵襲の恐怖もなく、ぐっすりと眠ることができた。

翌早朝、柱島を発って早瀬の瀬戸に向かった。狭い水道を通り抜けて懐かしい呉軍港に入ったが、駆逐艦ブイに係留できないので、海軍工廠のポンツ桟橋に横付けしたのであった。

その後、艦を修理するためドックに入り、艦の整備作業が始まったのである。兵員たちはそのままポンツを仮の居住区として生活することになった。そしてこの修理期間中に休暇が許されることになったので、休暇の様子を記しておこう。

 

軍の休暇は、平常時には夏期休暇十日間、冬期休暇五日間ほどあったそうである。戦時中は決まった休暇はないが、戦地から帰った時や、これから激戦地に出かけるときなどは、特別に三日間だけ許可されたのである。

三日間の休暇では、どうにか家に帰って来る最少の期日である。それは陸軍と違って、勤務地である軍港の個所が少ないため、遠方から兵隊を集めているからだ。

呉鎮守府の所轄は、愛知県から山口県までの広い範囲に亘っている。横須賀は静岡県から北海道まで。鳥取県、京都府、北陸地方は舞鶴所轄。四国、九州が佐世保鎮守府となっている。

上陸と休暇との違いは、上陸には時間の制限もあるが行動区域が決まっていて、たとえ時間に余裕があっても、決められた区域の外まで足を延ばして巡羅にでも見つかれば軍法会議にかけられて罪になる。

休暇の名目は墓参ということで、故郷に帰って祖先に別れを告げ、心置きなく戦場へ行けとの意味であった。

『休暇は一期、吊床は当番吊床』

これは海軍における要領のよいことを示した諺の一つである。休暇は全員を同時に与えることは絶対になく、必ず三組以上に分けて行われる。それで緊急の用務が突発すれば、休暇は直ちに取り止めになってしまい、再度この休暇が復活されることはない。次は新しく期割りが編成されるので、後の組は損をすると言う意味である。

休暇の組編成は、誰がどのように相談して決めるのか知らないが、私たちには班長から知らされ、紙に書いて壁に貼られる。

「このたび休暇が許されることになった、休暇期間は三日間である。それで休暇は三期に分けてあるから、自分の期日を間違えないように確かめておけ。なお厳重に注意しておくが、いま国を挙げての戦争中である。どんな事故にあっても帰艦時刻に遅れるな。後発航期罪は重大な罪であることを忘れないよう、余裕をもって帰ってこい」

休暇割り表が発表された。私は三期であったが楽しみは後の方がよいと思い、不服はなかった。

海軍生活四年半のうち、休暇で帰郷したことが五回もあり、幸運であったと思う反面 、それだけ最前線の危険勤務が多かったとも言える。そして五回とも休暇は三日間で、いずれも三期であった。

明日から一期の者たちが出発するという日の夜、役割から整列がかかった。

「明日から休暇が許される。貴様ら、まさか逃亡する奴はいないと思うが、間違ってもそんな非国民になるな。それから帰艦時間に絶対に遅れるな。新兵たちは近くの先輩の者と一緒に行動しろ。いまから貴様らに休暇土産をやるから、一人ずつ出てこい」

直心棒の休暇土産を尻に十発もやられた。当分のあいだ裸になるのが恥ずかしいほど尻が紫色に腫れあがるのだが、家に帰れるのだと歯を食い縛って我慢したのである。

ドック内での作業が続き、一期の連中がしょんぼりと帰艦してきた。次の二期組が嬉しそうに出発した。もう直ぐ私の番だ。毎日の作業にも張り合いが出て、心はすでに故郷に帰っている。

 

待ちに待った日の朝が明けた。元気に目を覚まし、体操、食事、掃除を終え、午前の作業はドック内で錨鎖の錆落とし、何をやっていても落ち着かない。嬉しさが自然と態度に現れてくる。午前の作業が終わった。二期の者たちが寂しそうに戻ってきた。

錆と油で汚れた手を、いつもより丁寧に石鹸で洗い、昨夜手入れしておいた軍服、軍帽、靴などの支度しておき、昼食の準備にかかった。

「食事、休暇員休暇用意」

待ち焦がれていた嬉しい号令だ。食事をする時間も惜しい。早速衣嚢を取り寄せて下着から軍服まで一装に着替え、手箱から十五円ほど入っている財布を取り出して胸のポケットに納めた。

「柴田上水、本日から三日間休暇をいただきます。留守中お願いいたします」

「おう、事故の無いよう気をつけて行ってこい」

「お前、まだ飯を食ってないだろう、時間はあるから食べていけよ」

四班の人たちの親切が身に沁みて嬉しい。後のことを堀内一水に頼み、急いで上甲板に駆け上がつて整列した。皆の顔が明るく元気だ。

先任下士が上陸札を集めて回り、国鉄の普通三等列車の半額割引券と、休暇証明書が手渡された。

「今から三日間休暇を許す。ご先祖様にお参りをして、家族の者たちに別れを告げて来い。それから休暇中にどんな事故が起きても、時間に遅れず必ず帰って来い。もし列車が遅れたら駅長の証明書を貰うことを忘れるな」

さあ出発だ。海軍工廠内の通路を通り、第四ドックの角を回り、呉鎮守府の横を抜けて海兵団の正門まで来た。自然と急ぎ足になる。第一営門を無事に通過、躍り上がる心持ちで呉駅に着いた。

豊橋までの乗車券を求め、改札口にいる巡羅に休暇証明書を提示して検問を通過した。これで今から三日間自由の身となったのだ。

プラットホームに立ち、汽車が到着するのを待っているのは、実に楽しく嬉しいものである。

当時の列車にも「つばめ」「さくら」などの特急や急行もあったが、我々平民は専ら普通列車の三等と決まっており、料金の高い一等、二等や急行列車などに乗ることは、考えてもいない時代であった。そのため、各駅停車で呉線を進み、山陽本線の尾道まで二時間もかかり、岡山付近で日が暮れてしまった。

満員列車の固い腰かけに詰め込まれ、身動きもできない状態で七時間も座っていると、足のやり場がなく少し疲れてきた。だが寝るのは惜しい。内地の景色を見ているだけで嬉しい。

やがて夜行列車の急行となり、小さな駅は通過して進行速度が早くなった。神戸、大阪、京都、もう半分の行程は過ぎたであろう。東本願寺の本堂が見える。思わず両手を合わせて心の内で念仏を唱えた。

狭く固い座席でろくに寝ることもできず、米原を過ぎ大垣で夜が明けた。再び普通列車になったので各駅停車がもどかしい。やっと名古屋駅に着いた。あと二時間だ、もう座ってはいられない。昇降口まできて待機した。岡崎、蒲郡、三河湾が広がった。渥美半島が霞んで見える。

汽車が懐かしい豊橋駅のホームに滑り込んだ。列車が止まるのを待ち切れずに飛び降りて改札口に走った。三河田原行きの渥美電車に飛び乗ってほっとした。既に午前九時だ。呉を出発してから十八時間が経過している。電車よ走れ、早く、急げ。

ここまで来ると水兵服姿の私が珍しいのであろう、車内の者たちがこちらを見ている。戦争中に兵士がのんびりと帰省しているではないか、という目に思える。私は南方の激戦地から帰って来たのだ、内地勤務ではないぞ。命がけで闘ってきたんだぞ、と叫びたい。

やっと三河田原駅に着いた。ここからまだ一里(約四キロ)あまりの道を歩くのである。急げ、家はもう近くだ。

母校の北部尋常小学校を過ぎ、笠山の麓まで来た。夢に見てきた波瀬の村が広がった。お寺の塀が見える、本堂の屋根が、故郷の家々が近づいてくる。

畑で働いている人たちは顔見知りの者である。波瀬の村に変わりはなく平穏であった。人も、家並みも、薮も木も、路も草も以前のままである。ああ、俺は帰って来たんだ。

屋敷の門口から家に駆け込んだ。

「オーイ、いま帰った。わしだ、わしだ、帰ってきたぞ」

まず、お仏壇に向かい、私がこれまで無事に生きてこられたことを、心から感謝して手を合わせた。南無阿弥陀仏。

姉が畑から飛んで来た。義兄も喜んで迎えてくれる。近所の人たちも私が帰ったことを聞きつけて顔を見せてくれる。

「ヨッチャンは年若くして兵隊に征ったけど、はい一人前になっただね」

「海軍の上等水兵と言うのか、左上のマークは練習生の学校を卒業した証かん」

「駆逐艦は勇ましいだらぁなあ。南方の戦線で戦ってきたのかん、ご苦労だったのう」

近所の人たちは、海軍の様子や戦争の状況を知ろうと真剣に聞いてくる。新聞やラジオで報道された海戦に参加していたことを話すと、驚くと共に感激してくれた。

村の人たちは私のことを本当に心配してくれているのだ。この人たちの平和を、そして我が故郷を外敵から守らねばと、改めて心に誓ったのである。

次は私が村の様子を聞く番である。誰と誰が応召され、誰が何処で戦死した。誰の息子は何処の連隊で活躍しているなど、陸軍の話ばかりである。波瀬からは私以外に海軍には征ってないようだ。

小学校は国民学校に変わり、青年たちは軍事訓練や軍の奉仕作業が多くなったこと。漁業は資材不足のためできなくなった。その代わり夜光石の海岸に、日本曹達の工場を建設しているから、そこで皆働いているとのこと。

「とにかく心配はいらんで、家のことは皆んなが見とるでね」

と、口を揃えて励ましてくれるのであった。

辺りを見渡したが、わが家の様子に変わりはなかった。西の海岸に打ち寄せる波の音、松林を吹き抜ける風の響き、網倉を覆うように繁っている老梅、少し傾いている井戸屋根、大戸口の小さな障子まで懐かしい。何を見ても子供の頃からの思い出がある。

ただ何でもない当たり前のことだが、祖国を遠く離れ、外国の地において激しい戦いの途中に帰郷し、再び戦場に赴く運命の私には、何もかも感慨無量であった。我が家には二度と戻れないのを覚悟して見るとき、一つ、一つ、頭の中に覚え込むように見つめたのである。

夕食は、義兄さんが角立網で捕れた魚を買ってきてくれた尾頭付きに、姉さんが真心込めて料理してくれた野菜の煮つけであった。家に一灯しかない電灯をお勝手口まで引っ張り、家族揃っての食事である。しみじみと家庭の味がする。肉親の暖かみを肌に感じる。私はいま本当に家に来ているのだ。このまま時間よ止まってくれ。

豊橋に居る親父さんもお母さんも、元気で暮らしているとのこと。吉胡新田の田んぼは小作に出して、作物は食べるだけにした。農繁期には村の者たちが手伝ってくれるから、家のことは何も心配いらんと、姉夫婦は私に繰り返して話してくれた。

幼い頃から私を実の子供以上に可愛がって育ててくれた姉夫婦。新聞ラジオで戦況を知るたびに、私のことを心配していてくれたのだという。身内とは本当に有り難いものである。

軍隊生活も間もなく二年を過ぎ、駆逐艦勤務も二隻の経験をした。海軍砲術学校を卒業して測的術の特技章もある。もう私は大丈夫だ、軍隊には慣れたから心配せんでいい。戦場ではどうなるか分からんが、無闇に死にはせんから安心してくれ、と深夜まで話は尽きない。

久方ぶりに畳の上に布団を敷いて寝ることができた。波やうねりにつられて、ゆらり、ゆらり、と揺れながら寝る駆逐艦の吊床とは違い、我が家は大地の上に建っている。どっしりと安定した畳の上で、思いっきり手足を伸ばして横になった。我が家はいいなあ。

 

翌朝、目を覚まし辺りを見て安心した。姉の作ってくれた味噌汁が美味い。早速、親戚知人を回って元気な姿を報告した。道で出会った人たちから声をかけられたり、同級生や友達の所にも顔を出した。誰も素朴な人柄で真面目に働いていた。

お寺に行きご先祖様に報告しなければと、お墓の前に立ち、これまでの無事と今後のご加護をお祈りした。

本堂に上がって合掌していると、ご院主さんが近づいてきた。

「芳三さん帰って来たんか、ご無事でなによりです」

子供の頃からお世話になっていたお寺さんで、軍隊や戦争の話に熱中して、昼近くになってしまった。

三日間の休暇も二日を過ぎようとしている、心細くなってきた。

我が家での最後の昼食になると思うと、姉が心を込めて炊いてくれた赤飯も、胸がつかえて喉を通らない。

「わしは絶対に大丈夫だで安心しとっとくれ。手紙は出せんことが多けど心配せんでいい。義兄さんも姉さんも体に気をつけて。仕事も無理せんように」

身を切られるような思いで家を発ったのである。涙がとめどもなく流れる。水兵服に革靴を履き、教育を受けた一人前の海軍軍人の心づもりでいたが、やはり人の子。故郷を後にして戦場に向かうのは、たまらなく寂しく辛いものだ。足が重い。

笠山の麓まで来て、振り返って村を見た。家並みや松林が涙に霞む。もう我が家は見えない。さようなら波瀬の皆さん、元気で居てください。

 

豊橋の大手通りで、金網製造業を営んでいる二番目の姉の家を訪ねた。姉が驚いて母に知らせて駆けつけた。

「芳三、元気で良かったのう」

年老いた母は、私の軍服姿を初めて見て安心したようである。海戦のニュースを聞くたびに心配していた母と姉は、私の元気な姿を喜んでくれたのである。

お茶を飲み、お菓子を食べながら明るく話していたが、時の過ぎるのが気が気でない。

もう時間が迫ってきた。豊橋駅まで母と姉が送って来てくれた。

「わしは無闇には死にゃあせん。大丈夫、心配せんでいい。おっ母さん、姉さん、体に気をつけて。では行って来ます」

涙の顔を見られたくない。心配をかけたくない。これで二度と会えるかどうか。振り向かずに改札口からプラットホームに走ったのである。

楽しみにしていた三日間の休暇はあっという間に終わり、汽車は予定通りに豊橋駅を発車した。

三河三谷、蒲郡、列車の窓から海の彼方に見る最後の故郷。蔵王山、笠山、そして姫島、あの辺りが我が家であろうか。

お父っあん、おっ母さん、義兄さん、姉さん、そして皆さん、ご機嫌よう、さようなら。

また、一人ぼっちだ。