わが青春の追憶
駆逐艦磯風

呉工廠第四ドッグ

楽しみにしていた休暇が終わり、事故も無く帰艦したものの、故郷の懐かしさが忘れられず、若い兵隊たちは元気が無かった。すると、私たちの気持ちを知っていたように、夜中に整列がかかった。

「貴様ら、休暇から帰って、いつまでもシャバに居る気でいやがる。我が帝国海軍はいま南太平洋で激戦奮闘中だぞ。いつまでも女の腐ったような態度を改めよ。いまから軍人精神を叩き込んでやるから覚悟しろ」

と、前支えを三十分近くもやられたうえに、グランジ・パイプ(ホースの筒先)で尻っぺたを五発ずつ殴られ、休暇の思い出などいっぺんに吹っ飛んでしまった。

 

「磯風」は船体修理のため、呉海軍工廠の第四ドックに入渠していた。そして破損個所の修理だけではなく、新しい装備として電波探信儀や、二十五ミリ機銃などを充実装備したのである。

呉工廠第四ドックとはどんなものか、案内しよう。

呉の海軍工廠は、平清盛が掘り割ったといわれる音戸の瀬戸から呉鎮守府の赤煉瓦の建物の所まで、港に面した山麓一体が工場となっていて、高いクレーンや大きな建物、造船台、ポンツ桟橋などが密集していた。この鋼材や建物が乱立している間の所々にドックがある。そのうち特別に大きなドックが鎮守府の近くで目立っていた。これが日本海軍が誇る戦艦「大和」を建造した、東洋一の第四ドックである。

第四ドックには、たまたま戦艦「大和」が入渠していた。「大和」の前の部分に駆逐艦が二隻並んで入っており、そのうちの一隻が「磯風」である。排水量六万九千トンの戦艦「大和」と、一等駆逐艦二隻を同時に飲み込んでも、なお余裕があるほど大きな規模であった。

 

艦がドックに入る様子を記しておこう。

ドックに入るには、まず公務部から曳船が三隻やって来て、一隻は本艦の前方で引き、二隻は艦の左右両舷に横付けしてドックの入口まで曳航する。この操作は港務部の案内人が本艦に乗り込んで来て全ての指揮を執るのであった。

ドックの入口まで引いてきた曳船は、ワイヤーを離して艦から去って行く。艦は惰力だけでドック内に入って行き、定位置まで来るともやい索を渡して艦を固定する。次にドック入口の大きな扉を閉めてドック内の排水をするのであるが、物凄く強力な排水ポンプであろう、見ているうちに水位が下がっていく。その間に潜水夫が艦底に盤木を当てるのである。

艦底が盤木に定着すると、今度は我々兵員がドックの底に降りて、竹箒やブルームでドック内の掃除をするのだ。ドックが干し上がると、工員たちの仕事が一斉に開始される。戦時中の工廠は突貫作業で、手順もよいが工員の技術も高い。現代のように賃金ストライキやデモ行進など無く、不満も愚痴も許されない時代である。従って仕事が早い。

艦の両舷側に何段かの足場ができ、大きなクレーンが動きだす。鉄板の切断、運搬、溶接、鋲打ち、塗装など、分担作業で効率が良い。

一人の工員が、ドックの底で太い鉄の鋲を焼いている。やがて真っ赤に焼けた鋲を無造作に火箸でつかみ、ピューッと上に放り上げる。赤い光の点線がツツツーと十メートルほど垂直に上ると、上の足場に居る工員は心得たもので、小さな塵取りのようなものでこの焼けた鋲を受け取り、船体の鉄板の穴に差し込むと、すかさずダダダ……と気圧銃で鋲打ちが行われる。見事なものだ。

下で鋲を焼いて放り上げる者、上で受け止めて鋲打ちをする者、艦の内側で鋲を支える者、この一組のチームワークは実に素晴らしい。呉工廠の工員は優秀な熟練工が揃っていて見事な仕事ぶりだ。夜間の作業などは、美しい芸を見ているようであった。

海面に浮かんでいるときの駆逐艦は細長く低い。小さな軍艦だと思っていたが、ドックの底から見上げると、広い艦底に高い外舷、結構大きな軍艦であることに頼もしさを感じた。だが、隣に鎮座している戦艦「大和」に比べれば、駆逐艦など伝馬船かと思われるほどである。

戦艦「大和」の艦底の下を歩いてみた。巨大な鉄の塊が頭上から覆いかぶさって、圧迫感で今にも潰されそうな恐怖に襲われた。広い、とにかく大きい。どれだけ歩いても鉄の天井だ。世界中の鉄を全部集めたかと思えるほどだ。艦尾に回ってみた。推進軸もスクリューも怪物のようで、しかも四基だ。艦首の下側には大きな鉄塊がデーンと付いている。この巨大な鉄の山が海に浮かび、二十七ノットで太平洋の荒波を蹴散らして走航するとは、想像もつかないほど大型の軍艦であった。

艦がドックに入っている間、兵員たちの仕事としては、錨や鎖を艦から下ろして、鋼線刷毛で錆を落としたり、油で拭いたり、また艦底に入ってハンマーで鉄板を叩いて錆を落とすカンカン虫と云われる作業が多かった。

その他に、特技章を持っている者は、自分が管理している兵器について、技術官の検査を受けたり、工廠に修理に出したり、作業の立ち会いに出ることもあった。

私も探照灯の検査を受けたが異常は無かったので、二メーターと三メーターの測距儀を調整するため、高見兵曹と二人で光学兵器研究所に出かけ、何日も測距儀の調整をしたのである。

河原石の小高い丘の上にある光学兵器研究所には、大小の測距儀の他、潜望鏡、照準器、大型双眼鏡など、調整のため各艦から持ち込まれた物が数多く保管されていた。その中から「磯風」の表示が付いている測距儀を捜し出し、高見兵曹と交代で遠方の山頂にある標識を何回となく測り、正確な測定ができるまで調整するのである。

ドック内における「磯風」の修理も進み、爆撃で無くなった艦橋から前の艦型はほぼ完了して、内装にかかっていた。これから一番砲塔を据え付けて、二十五ミリ機銃を増設すれば完成である。これも工員たちの昼夜ぶっ通しの、突貫作業で出来上がったものである。

 

「磯風」がドックで修理をしている間、兵員たちは四分の一の入湯上陸と、土、日曜日の半舷上陸が行われていた。外地に居た時はお金を使うこともないので、給料をだいぶ貯めていたが、呉の街に上陸するようになって、間もなく小遣い銭に困るようになってきた。

十六年志願兵の同年兵組も、宿泊できる入湯上陸を認められ、イッパシの水兵になったつもりで、

「おい、今度上陸したら同年兵会をやろうじゃないか。俺が席を設けるから皆集まれよ」

ということになって、市内の料理屋において一晩飲んで騒いだのである。その翌日、

「次の上陸日には愛知県人会をやるから、集まってくれ」

また宴会でお金が要った。

続いて、

「砲術学校卒業者集まれ」

と、引き続く出費に、五十円ほど貯めてあった金が残り少なくなってきた。

お金の無い上陸ほど淋しいものはない。腹いっぱい美味いものを食べることもできず、好きな映画や演劇も我慢せざるをえない。お金の無い時は、まず下士官兵集会所において宿泊券を十銭で求め、入浴は無料の集会所で済ませ、後は十五銭のニュース映画を観て集会所に帰って寝るだけである。

小遣い銭が無くなると、実家に送金を頼む者もいるが、このことを連絡する方法に苦心していたようだ。当時のことだから電話などかけることもできず、手紙の連絡しか取りようがない。だが『金送れ』などと書けば検閲が通らない。そこで、『親父バンザイ』の暗号を誰かが考えて、一般的にこの暗号を使っていたようだ。私も金が無くて上陸しなかったことはあるが、『親父バンザイ』も、友達からの借金もせず、なんとか我慢してきたのである。

 

そんな時のことである。

「温泉休養があるそうだ」

「駆逐艦では初めてのことだが、潜水艦は戦地から帰ると、何処かの温泉に行って休養をするのだそうだ。俺たちも激戦地から傷ついて帰ってきたんだ。偉いお方から認められたのか、それともうちの艦長の腕前が良かったのか」

給料日を目前にしての噂である、皆躍り上がって喜んだ。そして噂は実現となった。休養期間は二泊三日、三期に分けて出掛けることになったが、今度も私は三期であった。

呉駅から汽車に乗り、広島で山陽本線に乗り換え、山口県山口市の近くにある湯田温泉という所に着いた。当時の湯田温泉は田んぼの中に三軒しか旅館はなく、我々が宿泊すれば満員という淋しい田舎であった。

休養中の宿泊も食事も無料、そのうえ一人に一升の酒がでるという。これは山口県知事の慰問品だと聞いた。さらに十人ほど居る芸者は無料奉仕でサービスがよい。風呂は温泉だから一日中入浴できる。

田舎者の私は、温泉という所に来たのは初めてであった。朝からのんびりと湯につかって、ご馳走を食べ、酒を飲み、訓練も作業も掃除もない。叱られることも、殴られることも、整列もない。この世の極楽であった。田舎者の貧乏人には考えられない、贅沢な生活があったのだ。

湯田温泉から戻ってみると、戦艦「大和」も「磯風」も第四ドックから出て、「磯風」は工廠桟橋に係留されていた。一番砲塔も立派に装備され、駆逐艦「磯風」は完全に復旧が終わっていたのだ。

本艦は再び新鋭艦として姿形を整えただけでなく、新兵器として電波探信儀が装備されたのである。これからは見えない敵でも測的できるのだ。さらに後部煙突の両側に、二十五ミリ機銃が二基増設されたのである。

 

そして、兵員の異動と配置換えが行われた。

「柴田上水は、今日から砲戦指揮中継所の修正手を命ずる。重要な役目だから、しっかり勉強して頑張ってくれ」

探照灯の係から、射撃盤の配置に換わったのである。「磯風」乗組員のうち、測的幹部班の特技章を持っているのは、私一人だけのため異動したのであろう。それにしても射撃盤の距離苗頭修正手は、優秀な下士官の配置だ。私のような普通科卒の上等水兵ごときに、白羽の矢が立とうとは思いもよらなかった。よし、頑張ってやろう。

意地悪だった掌砲長も、愉快な砲術科先任伍長も退艦した。各班一、二名ずつの異動があり、全体に若返ったようだ。

 

早速、四班から三班のテーブルに移った。三班員の編成は、

班長、トップ射手、皆本上曹。

トップ旋回手、佐藤上曹。

トップ伝令、村山水長。

砲術科先任伍長、中継所号令官、夏目上曹。

中継所伝令、高橋水長。

中継所弾着時計員、小野田水長。

中継所距離苗頭修正手、柴田上水。

トップ動揺修正手、浅井一水。

の八名であった。

三班は砲戦の指揮班として、皆優秀な者たちの集まりだ。そして真面目で親切な人たちである。特に先任伍長の夏目兵曹は豊橋の、小野田水長は愛知県東郷町の出身であった。この同郷の人たちと運命を共にする満足感を覚えたのである。

新しい配置となった砲戦指揮中継所は、艦橋の真下に当たる艦の中心部にある。一坪ほどの狭い室内の中央に射撃盤があって、これを取り囲むように、号令官、修正手、弾着時計員、伝令、の四人編成の配置であった。

一通りの特訓を受けたが、射撃盤の操作は砲術学校で徹底的に叩き込まれていたので、覚えは早かった。私に合った役のように思う。

いよいよ弾薬を搭載し、食糧も燃料も満載した「磯風」は、装備も兵員も充実し、出撃準備が完了したのである。

 

時は昭和十八年七月上旬、戦局は敵連合軍の物量作戦による反攻で、日本軍は各地で苦戦状態となっていた。ソロモン方面の戦線では、敵軍の猛攻によって、皇軍は後退あるいは玉砕した所もあるとの噂があった。

さらに、連合艦隊司令長官山本五十六大将が、南方の前線において戦死を遂げられたと聞く。また駆逐艦も多く撃沈されたらしい。今度こそ、出撃すれば命はないものと思う。しかし下級であっても軍人である以上、戦の庭に立って立派な働きをしなければならない。

「明日と明後日に半舷上陸を許す」

いよいよ最後の上陸となった。別れを惜しむ人もなく、ただ見慣れた呉の街を歩き、腹いっぱい食べただけで桟橋まで帰って来たのである。

迎えのカッターが着いた。いま踏んでいる祖国の地に、再び立つこともないであろう。寂しい気持ちでカッターに乗り、「磯風」に向かって力一杯漕いだ。

さあ、元気をだそう。