わが青春の追憶
破局への戦い

大地に立つ喜び

明けても暮れても海また海に、気の狂いそうな苦しい日々に喘いできたが、三十二日目にやっと長い航海が終わることになった。

「オーイ、陸が見えるぞ」

「この世に陸地は無いものと思っていたが、やれやれ助かった。ここは何処なんだ」

「ボルネオのタラカンという石油の出る所だそうだ」

「じゃあ燃料はたっぷりあるな、だが大根や白菜は無いだろうな」

久し振りに見る陸地は、ボルネオの東海岸にあるタラカンという大きな油田の街であった。

海上から見たタラカンは、辺り一面にたくさんの櫓が立っていて、櫓の元から太いパイプが連なり、それが集まって大きな管となり桟橋まで続いている。街といっても商店街らしい所は無く、工場だか住宅だか分からないが、所どころに粗末な建物が有るだけで、南方特有の密林も沼も無い。

ただ一面の茶褐色の土だけで、雑草も生えていない殺風景な所であった。

艦はここの桟橋に係留すると、早速重油ならぬ新鮮な原油を満杯に搭載すると同時に、水や食料品を積み込んだのである。

次は上陸が許されるだろうと、兵員たちは期待に胸を膨らませていたが、その日は何の音沙汰もなし。艦は桟橋を離れると、沖合いに出て投錨したのであった。

明日こそ上陸できるだろうと、希望をもって夕食の支度にかかった。新鮮な大根や白菜は無かったが、パパイヤとか西瓜の他に、何という花だか知らないが、大きな赤い花の漬物など、ボルネオで採れる野菜や果物が食卓に出た。さらに、アヒルの首の皮つき骨付きが水煮で食器に盛られたものの、箸をつけるのに勇気が要った。とにかく燃料と食料については心配なくなったのである。 

明朝、無情にも皆の望んでいた上陸は無視されて、出港してしまった。陸地を目前にしながら土を踏むこともできず、再び猛暑の大洋へ航行を始めたのである。

「内地からの手紙も来ないし、慰問品も無しか。郵便船は来んのかなあ」

「一隻だけの駆逐艦に郵便物など持って来るわけないさ。戦艦か空母のいる所でなきゃあ駄目だ」

「彼女、元気でいるだろうなあ」

故郷に待っている人が居るのか、手箱から写真を出して眺めている者、呉の旭遊廓の誰かさんから貰ったのか、花模様の枕を頭上に捧げて「オッス」と、挨拶をしている者もいる。こういうことは善行章を持っている古い者でないとやれないことだ。オチョーチン以下の若い連中は、黙って横目で見ているだけだ。

内地を離れて遠い外国に居ると故郷の夢をよく見る。危険海域に入り警戒が厳しくなると、毎夜といってもよいほど家の夢を見るのであった。家族や故郷恋しさと、大地を踏みたい本能からであろう。 

故郷の笠山の麓を波瀬に向かって歩いて行くと、お寺の屋根や農家の屋敷が見えてくる。道端の雑草に混じってタンポポや野苺の花が暖かく迎えてくれる。畑で仕事をしていた村の人が、立ち上がって声をかけてくれた。お寺の境内に繁っている椎の木に、子供たちが登ってはしゃいでいた。本堂ではご院主さんがお勤めをしているらしく磬が鳴った。私は自分の足で故郷の大地を踏みしめて、足音高く家に向かって歩いて行く。家の門口まで来た。はやる心を抑えながら、オーイ、と駆け込むところで目が覚めるのであった。

毎夜こんな夢ばかり見てきたのである。夢は楽しい。けれど覚めた時にはがっかりする。楽しく懐かしい故郷から一挙に辛く苦しい戦地に、村の若い衆から地獄の新兵に一変してしまうのだ。ああ、まだ外地か、もう一度故郷の夢の続きを、と思う時間などない。飛び起きて寝具の片付け掃除と、一日の激しい活動が始まるのだ。

戦闘には恐怖を抱き、日常生活には身を砕いて上官に尽し、夜の制裁に怯えていたのが、戦場に居る新兵たちの実態である。ただ一つの楽しみは故郷の夢を見ることだけであった。

 

内地ではニュース映画とか、新聞、ラジオなどで、大東亜戦争における駆逐艦の存在を、どのように報道されたか知らないが、私たちは戦争期間中たえず危険にさらされながら、縁の下の力持ちとして地味に働いてきたのである。

映画のように水雷戦隊が猛スピードで波を蹴散らし、敵の大艦隊に突入、砲撃、魚雷発射、敵戦艦や航空母艦を轟沈させるなどと、カッコいい海戦はめったにあるものではなかった。

駆逐艦の乗組員たちは我慢と辛抱に耐えなければならない。どんな苦しみにも負けず、他人を羨んだり、他人のせいにして責任を転嫁することは、卑怯者のすることだと絶対に許されなかった。

乗組員の誰もが不平や愚痴を言わず、お互いに信頼していなければ一日も勤まるものではない。少ない兵員がそれぞれ責任ある役目をもって働いている。一人の不満やサボリのため、全員が重大な危険にさらされるのだ。嬉しいことも苦しいことも、全員が共に味わってこそ、どんな困苦にも耐えられるものと思う。長い航海の末、上陸することを唯一の楽しみとして、誰もが辛い海上生活を我慢するのであった。

 

最前線に出撃して、連日激しい戦闘を終えた時は、補給と休養のため安全海域まで下がり、ラバウル、トラック、パラオ、ブルネイなどに碇泊するのだが、さほど魅力のある所ではない。それでも上陸して土に触れることは嬉しかった。それがシンガポールとか、マニラ、バタビヤなどの大都会に上陸するとなると、嬉しさは数倍であった。

しかし、なんといっても感慨無量であるのは、内地に帰ることである。とりわけ呉軍港に入港したときが、最高の喜びであった。

懐かしい山並みに囲まれた呉軍港に入り、駆逐艦ブイに係留する。上陸するためカッターに乗り、オールの奪い合いで二、三発殴られても、無事に内地へ帰って来たのだと漕ぐ手に自然と力が入る。桟橋に着き、祖国の土の上に第一歩を下ろす。

不思議だ。足元がビクッともしない。大地が不動であることを身に感じる時である。全然動揺しないことのほうが不自然に感じ、高足を踏みながらの歩調となる。長い期間の海上生活で、寝ても起きても揺られていると、動揺が身に付いてしまったのだ。

不動の大地、足下から力強く安心感が湧いてくる。母国はいいなあ。

陸上に居る時は、陸地がこんなに有り難いと思ったことはなかった。それが、海上生活をして初めて大地の尊さを知り、大地に立つ喜びを知ったのである。

故郷の田原から、二十時間もかかる呉の街は遠かった。呉海兵団に入団した時は、あまりにも遠い所まで来たものだと、寂しく気落ちしたものである。だが、赤道を越えた南方の戦地から帰ってみると、呉の街は我が家に帰ったような安堵を覚え、身近に感じるのであった。

人間は、常日頃気のつかない当たり前のことでも、その当たり前のことができなくなった時、当たり前の有り難さが分かるのである。