わが青春の追憶
破局への戦い

終戦まで

苦労を共にしてきた駆逐艦「磯風」を深い海の底に残したまま、「雪風」に救助されて一夜を過ごし、着いた所が佐世保軍港の沖合いにある横瀬という島であった。

軍艦が海戦で沈没したとき、救助された乗組員たちは秘密保持のために一か月ほど島流しにされるのだ、とのことで横瀬島の海岸にあるバラック兵舎に入ったのである。

この島での毎日の生活は、演芸会とか運動会をやることぐらいで、訓練も警戒配備もなく、勿論兵器の整備も戦闘も無い。その反面 、外出も酒保も無かった。

たまたま沈没した戦艦「大和」の生存者も横瀬島に収容されていて、運動競技大会だとか演芸大会などに明け暮れるという、のんびりとした日が十日ほど続いたのである。

その頃、私と竹下兵長の二人だけ呉海兵団に転勤を命じられた。それは艦と共に失った「磯風」乗組員の履歴書を、呉鎮守府にある台帳から写し書きをするためであった。

鎮守府での仕事も終わった頃、佐世保の横瀬島に居た「磯風」の同僚たちも呉に集まり、海兵団の補充分隊に入れられてしまった。

呉海兵団補充分隊とは、以前にも少し体験したことがあるが実に嫌な所で、毎日の仕事も軍隊らしからぬ作業ばかりであった。

呉の街に出て強制疎開をする民家を取り壊したり、団外練兵場の地下防空壕を掘る人夫になったり、軍需品の運搬や、山頂にある砲台まで弾薬運搬などをさせられていた。時には将校の家庭に行って奥さんの命令?に従って、薪割りをやらされたこともあり、嫌でたまらなかった。

 

日本は今非常事態ではないだろうか。現役の特技を持った一人前の兵士が、こんな事をしていてよいのだろうか、と情けなかった。下級兵士でも軍人である以上国家のために働きたい。そして、もう一度軍艦に乗りたかったのだ。

たまたま小学校の同級生である福井二郎君が、呉鎮守府に電信兵として勤務していることを知って訪ねた。

「二郎君頼みがある、補充分隊ではどうにも我慢できん。艦船勤務に変えてもらうよう、叔父さんに頼んでもらってくれ。俺は死んでもいいから船に乗りたいんだ」

二郎君の叔父さんは海軍造船大佐で、いま呉鎮守府に居られると聞いたのでお願いしてみたが、既に乗る船は無かったのである。

ある日の真夜中のことである。補充分隊には珍しく緊急呼集がかかり、兵士全員が団外練兵場に集合させられた。

「全員よく聞け、大東亜戦争の状況はいよいよ深刻になってきた。敵連合軍は我が日本本土に接近してきたのである。最後の戦いである本土決戦に備えて、緊急に陸戦隊を編成することになった。陸戦隊員を希望する者は前に出て並べ」

私は補充分隊を出られるならどこでもよいと思い、前に出て並んだ。

「お前たちは率先して陸戦隊に加わった者である。皆の勇気と軍人精神に敬意を表する。直ちに隊を編成して、明早朝から訓練を行う」

編成の結果、私は迫撃砲中隊の第一分隊下士となった。そして部下十八名の兵が決まったのである。「磯風」では最後まで新兵として働いてきたが、陸戦隊では分隊下士となってしまい、十八名の班長になってしまった。変な気分である。

「おい柴田兵曹、陸戦隊といっても集まった兵隊たちは召集兵ばかりで、教育も訓練も受けていない役に立たない者ばかりだ。下士官も学校を出ている者は少ない。お前は砲術学校出身だから一分隊下士となってもらったのだ。兵隊たちの教育を頼むぞ」

小隊長となった兵曹長が小声で話しかけてきた。

「小隊長、私は駆逐艦乗りです。陸戦は学校の演習しか経験がありませんので、ご指導をお願いいたします」

「俺も実は二度目の奉公で現役ではないのだ。それに水雷科出身だ。柴田頼む」

翌朝、班員の顔ぶれを見てがっかりした。部下とはいっても私よりも年齢では大先輩の者たちで、二十五歳以上の者も多く、なかには四十歳に達している者も居た。大会社の重役タイプの者、町の政治家らしき者、良家の子息で高学歴と思われる者、肉体労働者、百姓など、いろいろな混成職種の分隊であった

この連中の中で特に目立つ者が一人いた。背中から腕にかけて入れ墨をした一見してやくざ者と分かる奴だ。年齢三十歳ぐらい、私を見る眼が『なんだ小僧』といっているようだ。

大変な陸戦隊で、兵隊らしい態度が全くない。かといって年上の者を無闇に叱るわけにもいかず、殴ることもできないのだ。やはり私は新兵である

そのうえ配備された兵器を見て更にがっかりしてしまった。軍艦に装備されている精密なものとは大違いで、これでも攻撃兵器なのかと思われる簡単な迫撃砲であった。

烏合の衆の兵隊に、頼りない兵器。一分隊下士としてどうしてよいのか自信は無かったが、それでも私は砲術学校出身者として一応皆から認められたのであろう、班内の規律だけは守ることができた。

 

ところが十日程過ぎた頃、思いがけない事件が起きてしまった。

「班長、入れ墨の奴が巡羅に捕まりました。いま衛兵詰所に連行されて監禁されています。あいつ海軍工廠に行く女子挺身隊の女学生の後をつけて、海兵団を出て行ったので巡羅に捕まったんだと思います」

「お前たち見ていて、なぜ止めなかったのだ」

「あいつ、私たちの言うことなど聞くような奴ではありません」

これは弱ったことになった。班長である以上、部下が拘束されて放っておくわけにはいかない。仕方なく、私もやられるのを覚悟して衛兵詰所に出かけた。

「なんだ貴様があいつの班長か、貴様の部下はとんでもないことをやったんだぞ。貴様の教育が悪いからだ。官職氏名を名乗れ」

「陸戦隊第一中隊、第二小隊、第一分隊下士、海軍二等兵曹柴田芳三」

「ほう、お前二曹で一分隊下士か。ちょっと待っておれ」

最初の剣幕は荒かったが、何を思ったのか別室に入っていった。

しばらく待っていると、先程の下士官と年配の下士官に連れられて入れ墨兵がうなだれて出てきた。だいぶん絞られたようである。

「こいつ、女子挺身隊員の後を追って出て行きゃあがったが、まだ何もしていないから巡羅は俺の所へ置いていったんだ。海兵団では許可なく団門を出るだけで罪になるのだぞ。班長が戦地から帰ったばかりだから、今日のところは許してやるが、部下の教育をしっかり頼むぞ。召集兵の扱いは大変だな」

「今後絶対にこのようなことのないよう注意いたします。有り難うございました。では連れて帰ります」

思い掛けなく、あっさりと部下を渡してもらうことができた。二人は兵舎に戻りながら、

「お前大分やられたなあ。軍隊という所が分かっただろう。お前がどんなに腕力が強くても、海軍という大きな力には勝てんぞ。俺はお前よりも年下だが上官であり先任だ。なんだ小僧と思っても我慢して従ってくれ。お前が衛兵にどれだけやられたか俺にはすぐ分かったぞ。俺は駆逐艦乗りだ。毎日毎夜お前よりも厳しく絞られてきたんだ」

「駆逐艦では毎晩やられるんですか」

「善行章のつくまで三年間は毎日だ。勤務も船酔いも厳しいぞ。だからといって俺は部下を無闇に殴る気持ちはない。今、衛兵が簡単にお前を渡してくれたのは、俺が駆逐艦乗りだと分かったからだ。それは、俺に渡せば徹底的に絞るだろうと思ったのだ。だから他の者に聞かれたら班長にもやられたと言っておけ。これからは勝手な事をするなよ」

「班長、有り難うございました。これからはご迷惑をかけません」

この入れ墨君、立ち止まると初めて真面目な顔で敬礼をしたのである。

それからは私を見る目が変わった。気持ちが分かると意外と役に立つ男であった。

その頃になると、敵連合軍の本土空襲が激しくなり、日本の各都市が次から次へと襲撃されるようになってきた。呉の街も軍港都市のため、B29の大型爆撃機が高度飛行で白い飛行雲の尾を長く引いて飛んでいるのをたびたび見るようになった。

一日に何度となく空襲警報が発令され、サイレンがけたたましく鳴り響く。その度に訓練や作業を中止して、近くの防空壕に飛び込んでいたのであった。

 

こんな状況下において、駆逐艦「磯風」乗組員だけ三日間の休暇が許されることになった。私は海軍に居る間に五回も休暇で帰省したが、この時の休暇がいちばん記憶に残っているので、詳しく記しておこう。

昭和二十年七月初め、夕食後「磯風」の兵員たちだけが海兵団を出て、夕暮れとともに呉駅を出発したのである。

一時間程過ぎた頃、まだ呉線を進行中、突然空襲警報が発令されて列車は野原の中に停止してしまった。灯火管制のため車内の電灯は消え、満員列車は蒸し風呂のような暑さである。列車を出て線路脇の土手に上って空を見た。暗い夜空に爆音が聞こえた。

「いま呉の街が空襲されて、街中が火の海になっているそうだ」

「海兵団はどうなっているんだ」

返事はなかった。

そう言われてみれば、山の向こうの空が赤く照らされて見えた。

一時間程過ぎて空襲警報は解除となり、列車がゆっくりと動き出した。今回の休暇は警報が発令されても帰隊しなくてもよいことになっていたが、帰隊時間は延長されないので、警報が長引けばそれだけ家に居る時間が少なくなるのである。

真夜中に岡山、姫路を過ぎ、神戸に近づいて驚いた。敵機の空襲によって街は焼野原となっていた。大阪の大都市も一面に焼け跡となって、あちこちにまだ炎が残って燃えていた。だが、火災を消す消防隊はいない。人影も見当たらない。皆何処かへ逃げたのであろう。

 

呉を発った翌日の夕方、豊橋駅に着いて再び驚いた。電灯も点いていない暗いプラットホームに立つと、焦げ臭い匂いが鼻につく。豊橋の街も敵機の空襲を受けたのであった。辺り一面焼土と化し、駅の建物も焼け落ちて、プラットホームの屋根は鉄骨が曲がって残っていた。

線路を横切って渡り、仮設の出札口を出ると駅前の商店街は跡形も無かった。

渥美電車の駅舎も焼けて無くなっていた。大手通りに居る母と姉はどうなっているのだろうか。心配だが家に帰れば様子が分かると思い、渥美電車の線路に添って急いで歩いた。

運良く、柳生橋の駅から田原行きの終電車が出るところへ飛び乗ることができた。

田原の町は残っていた。灯火管制の暗い道を歩いて波瀬に向かった。行き交う人も暗くて分からない。自転車も無灯火で走っている。家まで五キロだ急げ。

浦村の入口の道路が工事をしているらしく、土の山や木の根っこが道の中央に放置してあった。急ぎ足でぶつかったり、転んだりして、暗闇の中を散々な目に遭いながら歩いた。もうすぐ笠山だ、その向こうが波瀬だ。

夢にまで見たお寺の前を通ると、しぜんと駆け足になる。

 

家の前に立った。我が家は変わっていない。西の海岸に打ち寄せる波の響き、松林を吹き抜ける風の音が懐かしい。家の中は真っ暗で、夜も更けているので寝たのであろう。

大戸口の引き戸を開けて家の中に飛び込んだ。

「おーい、いま帰った。みんな無事だらぁな」

暗い部屋の奥で人の気配はしているが、返事がない。

「おーい、俺だ俺だ。いま帰った」

奥の方でごそごそ人の動く音はしているが、声はない。

「わしだ芳三だ、急いで来たので腹が減った。なにか食べるものはないかなあ」

やっと、暗闇の中を大勢の人が這って集まって来た。電灯が点いた、七、八人の者が横に並んで座った。無言である。

義兄と姉の他に、豊橋に居た母と、二番目の姉とその息子と娘、さらに三番目の姉と娘まで居たのである。豊橋の街が空襲で全焼したので、皆ここに集まっていたのだろう。無事で良かった。

それにしても、なんで皆黙っているのだろう。

「おい、わしだ、芳三だ。休暇で帰って来た。豊橋は空襲で大変だったなあ。でも皆無事で良かった」

それでも無言のままだ。みんな私の顔をじっと見ているだけだ。

「皆んなどうしただ。わしは腹が空いとるで、何か食べるものは無いかん」

上がり端に黙ったまま座っていたが、やっと一番上の姉が声を出した。

「どうやら芳三は生きとるようだ」

続いて他の者も、

「足も有るし、幽霊じゃあなさそうだ」

「芳三は生きとったか」

なんと、私は死んだことになっていたらしい。

芳三が生きていた

集まっていた者たちは驚くと共に、心から喜んでくれた。身内とは有り難いものである。早速、食事の支度をしてくれたので、食べながら話を聞いてみると、

「今年の二月頃から、手紙を出しても返ってくるようになって、何回出しても戻されてなぁ。それにお前からも便りは来んで、こゃあ『磯風』がどうかなっただと心配しとった。そしたら、藤雄さんから手紙が来て『芳三さんの武運長久を祈る』と書いてあった。こりぁは生きては戻れん覚悟で、大きな戦争に出掛けたと思っとると、沖縄の方ですごい戦争があって、日本の軍艦が沢山沈んだとラジオで聞いた。だもんだい、お前の乗っとる『磯風』もやられたもんと思って、皆あきらめとったんだ。そのうちに戦死の知らせも届くだらぁけど、お前が深い海の底に沈み苦しんどると思うと、矢も盾も堪らず、お寺様に来てもらってお経を上げて貰ってな。お前はもうこの世の者ではないと、本当に諦めとったんだ。だで、さっきはどびっくりしたでね。まんだ夢のような気がせる」

そう言われてみると無理はない。海軍では軍艦が沈没すると、乗組員は手紙を出すことを禁止されるので、私の方から便りはできなかったし、「磯風」は東支那海の海底だから手紙の届く筈はなく、死んだと思われても仕方がない。

その夜は思い掛けない喜びに、明け方まで話が弾んだのである。

夜が明けると、近所の人達が駆け付けて来た。

「芳っちゃんは無事で良かったのお」

「おじさんも、おばさんも、本当に心配しとっただに。だもんでで無事に生きて帰ってこれただに。お祝いしてもいいのん」

「戦争に行って生きて来れたのは仏様のお陰だに。お念仏を忘んように、南無阿弥陀仏」

生きていて良かった。家族の者だけではなく、私を取り巻く皆さんが心から喜んでくれる姿を見て、つくづく家庭の有り難さと、故郷の親しみが身に沁みて感じられた。

遠い戦地に行っていても、私は、私一人ではなかったのだ。たえず私を心配してくれている人たちが、大勢居たのである。早速お寺とお墓にお参りをして、短い休暇が終わったのであった。

 

呉に戻ってみると、空襲による被害は想像以上に酷いものであった。市街地は中心部だけでなく、山麓一帯の住宅まで殆どが焼夷弾で焼失していた。

海兵団は、煉瓦造りの本部庁舎と、鉄筋コンクリート造りの八兵舎が残っただけで、木造兵舎は海兵団だけでなく、隣の防備隊兵舎も丸焼けになっていた。そして今までの陸戦隊は解散されており、再び嫌な補充分隊に入ったのである。

それからは毎日、敵B29の爆弾とグラマン戦闘機の銃撃に怯えながら、防空壕堀りの作業でモッコを担がされた。

軍人でありながら空襲警報が発令されると防空壕に避難し、敵機からの機銃掃射に逃げ回り、敵と交戦する武器も与えられない、情けない兵隊であった。

空襲警報を知らせるサイレンの響きが恐ろしかった。近くに防空壕が無い時もあり、木の陰や塀に寄り添って避難することもあった。敵機の銃撃に遭い、一メートル程の近くに機銃弾が飛んで来たこともある。軍人であってもこちらには攻撃する兵器は無い。恥ずかしくもあり怖くもあった。

 

その頃、田原町谷熊出身の先輩、鈴木基一上等兵曹が私の班に転勤してきたのである。班長となった鈴木兵曹は真面目な温厚な人柄で、やはり艦が沈没してここに来たのである。

そして八月六日が訪れた。今日も快晴だ。暑い日になるだろう。朝の作業が終わり兵舎の前に整列した。

「作業終わり、別れ」

解散して朝食をするため兵舎の入口に向かった。その時、

ピカッ、と光った。

快晴の明るい日差しを数倍上回る、物凄い閃光が走った。

一瞬、ギクッとして足を止めた。何だろうと、次に起こってくる何かを感じた。だが、何も起こらない。

「何処かで高圧の電気でもショートしたんだろう」

そんな事だろうかと、いつものように朝食をとった後、煙草でも吸おうと兵舎の外に出ると、大勢の者たちが河原石の方向を見て指を差しており、何事だろうと私も眼を向けた。

河原石の背後にある山頂から大空にかけて、真っ赤な、とてつもない大きな炎、いや煙だろうか、雲ではない。とにかく爆発した真紅のでっかい炎が、勢いよく晴れ渡った大空に上昇していく。

想像もできない物凄い大規模な爆発だ。何事が起こったのであろう。

「あの山の向こうにある、火薬庫が爆発したんだ」

誰かが尤もらしく話した。だが変である。空襲警報も出ていないのに爆発とは、スパイの仕業か、それとも事故か、状況は全く分からないのだ。

真っ赤な炎は勢いを増し、空高く昇っていき、先端が傘のように広がった。こんな凄い威力のある爆発物があるのだろうか。

その時は何がなんだか分からないまま、兵舎に戻って休憩したのである。

「課業始め、五分前」

続いて、

「各分隊ごとに急いで集合」

何事か急な用務ができたらしい。中庭に集合した。

「先程の爆発は敵機が特殊爆弾を投下したのである。いま広島の街が燃えている。直ちに各班一名を残して他は全員救助に行くことになった。服装は事業服に脚絆着用。手袋、手拭いを持ってトラックに乗るのだ。急いで支度しろ。かかれ」

「おい、そこにいる下士官、五、六人来てくれ。担架とスコップを倉庫から出して、トラックに積んでくれ」

甲板下士は大声で指示するのだが、古参の下士官たちであろう一向に動こうとしない。

「おい、誰でもいいから早くやれ。急げ二分の一」

甲板下士に怒鳴られながら用件を済ませ、兵舎に入って支度をしていた。すると鈴木班長が私の肩を叩いて、

「柴田兵曹は行かなくてもよいから、ここに残って待機してくれ」

鈴木班長は、広島の救助作業が危険なものと知ってか、それとも別に深い意味もなく私を止めたのか分からないが、この作業に従事した人たちの多くは、原爆症に罹ったそうである。今思うと幸運であったことに感謝するのみである。

呉海兵団に居た多くの兵隊たちが、トラックに乗って広島へ出発した。なにが起こったのか知らないまま一日が過ぎた。明くる日の朝、

「広島の街はメチャメチャになっているそうだ。今まで京都と広島は空襲しないからと、敵さんは放送で呼び掛けていたんだが、広島に日本人を大勢集めておいて特殊爆弾で全滅させやがったんだ。なんでも一発の爆弾で大都市を吹っ飛ばしたんだ。これからはこいつでやられるぞ」

原子爆弾ということはまだ知らないので、特殊爆弾であると伝えられた。

広島に救助に向かった者たちは、二日経っても、三日過ぎても海兵団に帰って来ないので、いろいろな噂だけが流れてくる。

特殊爆弾には、黒い色は危険で白色は安全だそうだ。被っている手拭いの黒色部分だけが焼けたそうだ。だから白い風呂敷を常に持っていて、警報が鳴ったら頭から覆えとか、B29爆撃機が高度で飛んで来た時、落下傘を見たら特殊爆弾だと思って急いで安全な場所に避難しろ、と言い伝えられた。

さらに、日本にも敵に負けない威力の爆弾が出来ていて、敵国にも大被害を与えているのだなどと、原子爆弾の恐ろしさに、デマが兵士たちのあいだに広がったのである。

 

三日目の夕方、広島へ救助に行っていた者の一部が戻って来た。ひどくやつれた姿で。

「広島の被害はどうだった」

「広島は、この世の地獄でした。戦争はもう終わりです」

年配の召集兵は、小声でつぶやくように私に言って去っていった。

お互い、口には出せないが、この戦争に勝てるとは思えなくなった。最後の一人まで戦うとのことであるが、日本はどうなるのであろう。これからは各都市に特殊爆弾を落とされ、日本人は全滅するのでは、故郷はどうなるだろう、家族は……。

 

八月九日、今度は長崎に特殊爆弾が投下されたとの話を聞いた。そして大勢の市民が悲惨な死を遂げたとのことである。次は何処かと……後の声は出ない。

呉軍港内には、たびたびの空襲で大破したり座礁した軍艦があちこちに残骸を残しているが、戦闘に出撃できるような艦艇は一隻も見当たらない。海軍工廠の大きな鉄骨の建物にも、一トン爆弾が何十個か落とされ、工廠は再建不能になっている。大きなクレーンが傾いたり折れたりしていた。ドックの扉も破壊され海水が侵入したままだ。街は焼夷弾で一面の焼け野原になっており、残っているのは土蔵と煙突ぐらいのものであった。それでも兵隊は居るのだ、武器を持たない兵隊が。

 

そして八月十五日を迎えた。

その日は朝から炎天の暑い日であった。弾薬運搬の作業が割り当てられた。海兵団からトラックに乗せられ、山裾にある弾薬庫で高角砲の弾丸を積み込み、私たち人夫は弾丸の木箱と共に荷台に乗せられて、灰が峰の山頂にある砲台まで運搬するのであった。

当時のトラックは、軍用であっても木炭車のため馬力がない。ガソリンの一滴は血の一滴と言われ、特攻機(爆弾を抱いて敵艦に突入する特別攻撃機のこと)に供給される貴重品である。

重い弾丸を積んだトラックは、急な山道を這うように喘ぎながら登っていく。途中で動けなくなったトラックを押して上り、昼頃やっと砲台まで辿り着いたのである。

「お前たちはこれからどうするんだ。もう直ぐ天皇陛下の重大な放送がある。全員聞くようにとのことだから、ここで整列して聞いていけ」

「私たちは、今日中にもう一か所弾薬を運搬するよう命令されておりますので、このまま帰ります」

天皇陛下の放送とは何であろう。重大なと言っていたが、命じられた仕事を終えなければ、と山を下りたのである。

 

弾薬庫に着いて様子が変なのに気が付いた。

門が閉まっており、番兵も居ない。

「おーい、門を開けろ」

声をかけたが誰も出て来ない、どうしたのだろう。塀を乗り越えて中に入った。下士官は居なくて兵が二人だけ居た。

「急に弾薬の移動が禁止されました。私にはよく分かりませんが、戦争が終わったとかで、皆さんは警備隊本部へ行かれました」

戦争が終わった?、そう簡単にこの戦争が終わるとは思えないが。

「おい帰ろう、弾薬が積めないのだから仕方がない」

海兵団に戻ってみると大騒ぎになっていた。戦争が終わったという話と、まだこれから最後の一兵まで戦うんだ、という話が混乱してどうなっているのか理解できない状態であった。作業は全部中止され、外出していた者も全員帰ってきた。

「今日、天皇陛下が戦争は終わったとラジオで放送したそうだ」

「馬鹿もん、こんなことで大日本帝国が負けるもんか。先程、士官たちが今から決戦だと大声で叫んでいたぞ。戦争はこれからだ、卑怯者」

「でも天皇陛下のお言葉は、間違いなく戦争は終わったと言われたぞ」

「軍港内を見ろよ、この頃入港していた潜水艦が全部出港したぞ。最後の総攻撃を敢行しろ、と陛下は激励のお言葉を下されたのだ」

下級兵士の私には、何が真実なのか分からなかったが、夕暮れが近付くに従って、戦争が終結されたことを一つ一つ確実にしてくれたのである。 

士官たちは各自の室に入ったきり顔を出さなくなった。本部兵舎の裏庭では、大量の書類が持ち出されて火が付けられた。薄暗くなった空に、書類を燃す炎が赤く鮮やかに見える。

街のあちこちに、山の中腹の各所に、焼け跡のバラックに、点々と明りが見え出した。兵舎内の電灯も黒い覆いを外して明るく輝いた。灯火管制が解除されたのであった。

長い間、夜は暗く明りのない期間が続き、光りで辺りを照らすことを忘れてしまっていた。屋外で燃すことなどは、敵のスパイとされていたのだ。

暗い夜に灯がともった。光明が照らされたのである。

暗く、苦しく、辛かった、長い長い戦争が終わったのだ。

戦争に負けたのだ。日本はこれからどうなるのだろう。軍人は殺されるかも知れない。

書類を燃す炎はますます大きく広がり、勢いを増して夜空を照らし出した。戦争という国を挙げて戦ってきたエネルギーも、忌まわしく悲惨なものも、辛く苦しく悲しいことも、全てのものを焼き尽くすが如く。

  

昭和二十年八月十六日、戦後第一日目の朝が明けた。これから日本はどうなるのであろうかと、とてつもない不安な気持ちに包まれつつも、敵機の爆音も砲撃の音も聞こえない静かな朝であった。

そして、今まで空襲警報を告げてきたサイレンは、夜明けを知らせる穏やかな音として、高らかに鳴り響いたのである。

 

こうして長かった大東亜戦争は終わったが、この戦争による犠牲はあまりにも大き過ぎた。国策に沿って若者たちは兵役に服し、家族を心配しながら厳しい軍務に従い、悪条件のもとに戦場へ赴き、地獄の苦難の末、この世を去って行った兵士たちのいたことを忘れてはならない。

私は戦場経験者として、生き残った者の責任を感じるのである。